経済人類学への誘いEconomyの多義性と経済学


 
手元にある辞書を引いてみた。「economy」の項である。それによると、いろいろな意味が載っている。@金品や時間などの節約、A社会や国家などの経済活動・状態、B家政、C組織の各機能の有機的統一、D自然界の理法・体系、E摂理、定制、経綸などである。
  ところが、普段はC以下の意味を意識することがあまりない。このため、「economy of truth」は訳せても、「the economy of a plant」などは、ほとんど見当がつかないことになる(念のために、それぞれ「真実をありのままに言わないこと」「植物の有機的営み」と訳すのが正解)。
  「経済学の先生なら、株の買い方に詳しいでしょうね」などとも言われる。つまり、どうすれば限られた手持ち資金を効率的に運用して最大限の利益を得ることができるのか、その判断基準となる世の中の経済の動きに詳しいでしょうね、というつもりなのであろう。そこには、先の@とAの意味が込められているが、こうした「economy」の使い方 から、「経済学」とは、希少な手段から目的の極大化に至る最適経路、経済的合理性の一般原則を解明する学問であるという1つの解釈が生まれてくる。そして、「経済効率」が唯一とも言える規範的基準として、様々な政策論が展開されることになる。
  ここでは、人間と自然との物質代謝過程であるはずの「経済」がプラクシオロジーの単なる1つの対象物に貶められ、人間相互の社会経済的諸関係の分析は遥か後方に追いやられてしまている。K・ポランニー流に言えば、「economy」の実体的意味と形式的意味の混同、あるいは前者の忘却ということになるが、これが持つ意味は極め て重いと言わねばならない。
  なぜなら、あらゆる社会において、総体的な再生産をその根底において規定しているものが常に「経済的合理性」であるとは限らないからである。もちろん、サバンナのムスリムたちが「非合理性」の世界に住んでいるというのもまた誤りである。灼熱の太陽の下、木陰で長時間の休憩を取ることも、機械を止めて遥かなるメッカに向かってひざまずくことも、彼らの肉体と精神の健全な維持にとっては正に理に叶っている。「経済的合理性」は全ての諸社会に適用しうる価値自由な中立的概念ではないし、ましてや、唯一無二の規範でもないことを理解すべきである。
  このことは、少なくとも人間の顔が見える「経済学」を語ろうとするならば、人々の「経済行為」でさえ、それ自体を抽象的に抽出して分析することはできないということを示唆している。あたかも、クリスマスケーキをナイフで切り取ってお皿に乗せるかのように、社会という全体構造の中から「経済」のみを切り離すことは、形式主義者の傲慢でさえある。分析上の手順からやむを得ずそうしたとしても、「経済」を再び「社会」の中に埋め戻して、もう一度その意味を問い直す作業がなされねばならない。
  こうした問題が、実は「非資本制社会」―私の専門領域はアフリカ社会経済論であるが―に限定されない所が深刻なのである。例えば、我が国においても、教育を他の普通の財と同一視して「教育サービスの需給関係」という経済用語に翻訳し、「自由競争に基づく効率化」を一義的に主張する潮流があるが、こうした政策論議の非人間性に敏感でなければならない。
  「economy」の多義性を認識し、その本義を問い直すこと、少なくとも「人間相互の、そして人間と自然との有機的に組織化されたシステム」という意味合いが大切にされるべき所以である。(『ニュース専修』第226号、昭和63年12月15日、より再録)

  このエッセイは、10年以上も前の助教授時代に書いたものであるが、その考えは今でも変わっていない。現在では、国際経済学科の「経済人類学」という科目において、こうした内容を中心とした講義を行なっている。

                        2000年12月24日、川越にて

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