アフガニスタンの現状と支援のあり方

 

カブール市内を見渡せる高い丘で出会った3少年と復興の木々

 

 

専修大学 経済学部 国際経済学科 
W130159F  澤井 祐太



      
アフガニスタンの現状と支援のあり方



   はじめに

   第1章 義足支援を通じて感じたこと

   第2章 なぜ、アフガニスタンに内戦が続いたのか?

   第3章 「平和」について

   第4章 ブルカについて

   第5章 国際社会の支援のあり方

   第6章 アフガニスタンを想う


   補論



   はじめに

   私は、アフガニスタン義肢装具支援の会(本部は奈良県)というNGOの同行ボランティアのメンバーとし
  て、義股技師を含めた9人でアフガニスタンへ行った。目的は、前回(2004年1月)に採型取して日本で
  作った12本の義足を、今回、患者さんに届けるということと、新しい患者さんの採型取りである。

   第1章 義足支援を通じて感じたこと

   地雷で手足を失った人は毎日増えており、職を失い、失業者になる人が少なくない。今回の私たちの
  訪問を口コミで聞き、私たちが滞在していたゲストハウスに義足を作ってもらおうと2時間かけて歩いてき
  た人など、患者さんの訪問の人数が多かったことに大変驚いた。時間の都合上断ると、彼らは今回でき
  なくてもいいから採型取りをしてほしいと必死に訴えてきた。首都のカブールでさえ、義足支援設備と人
  材がいないため、支援を必要とする人たちは非常に多くいるのである。義足を着けてもらい、手を使って
  文字を書くことや、織物の作業ができるようになった人の安心した顔を見て、自分もうれしかった反面、
  地雷の残虐さとその犠牲の深さを痛いほど感じた。
   今回カブールに診察に来た患者さんは、皆10年ほど治療を受けられず、今回ようやく、自分の手や足
  にあった義足を手にした人や、初めて採型取りしてもらえた人たちであった。私たちが特に残念に思った
  ことは、前回、採型取りをして作った義足を配りきることができなかったことである。原因は、その患者さ
  んがどこかへ引越しをしてしまったことや、筋肉がやせてしまったことでサイズが合わず、作り直しになっ
  たためである。地雷の犠牲者は、戦争が終わっても彼らに失った身体は戻ってこないため、彼らが生活を
  していく上で、義足は絶対に必要なのである。義足は、人それぞれのサイズに合うものでないとさらに傷
  口を傷めてしまうため、その人オリジナルの義足が必要になる。私は、身体の損失と傷口の苦痛と、そ
  の人の生活環境の破壊と絶望に変える無差別爆弾"地雷"は、どんな目的であっても、許されない非人
  道的行為であると思った。私たちの団体のように、無料で診察をしてくれる施設は全く足りず、毎日、地
  雷の犠牲者が増えているため、地雷の撤廃と被害者への支援は、その人の社会復帰や、これからの犠
  牲者をなくすために、最も急がなくてはならない支援の1つであると考えている。

   第2章 なぜ、アフガニスタンに内戦が続いたのか?

   現在まで戦争状態が続いた背景には、権力支配地域を増やしたいと考える一部の軍閥や部族の利権
  争いが挙げられる。しかし、20年以上内戦が長引いた背景には、彼らへの外国の軍事介入が行われて
  いたからであった。長年にわたり、地雷を埋めてきた外国軍(旧ソ連や英米軍)や、アフガニスタンという
  国土や天然資源の所有権を目的に各部族や各組織を軍事面や資金面で援助し続けてきた周辺国とアメ
  リカ、そして、アフガニスタンが戦火で危険であるために、人道援助を手放し、見放してきた国際社会全
  体の責任はとても大きいと思う。
   アメリカが、戦争に地雷やスカッドミサイルや空爆を使用し続けてきた行為は、無差別テロであり、長
  期間にわたって殺し続けるジェノサイド(集団虐殺)でもあると私は思う。地雷は、永久に敵に心理的ダ
  メージと恐怖を与え続け、絶対的な支配権を相手に植え付けさせるのである。しかし、この行為は、被害
  者にアメリカへの憎悪と、アメリカへの復讐を作るきっかけを作ってしまっているのである。(彼らの反撃を
  国際社会は、過激イスラム教徒=テロリストによるテロと結びつけ、彼らの行為を強く厳罰している。)民
  主化やタリバーン侵略をなくすために戦争を行ったとしても、地雷という無差別な攻撃は、戦争が終わっ
  ても、無実な人を永久に殺し続けるため、効率も悪いはずである。この矛盾に世界の人は気づいている
  だろうか?アメリカの意図は、自国の利益にあり、アフガニスタンの一般市民の平和や民主化ではない
  と考えられる。地雷によって傷つけられた一般市民の手足の損失と絶望は、何に対する代償があるの
  か?私は米軍が、国際社会で禁じられている地雷を使った意図を知りたい。私は、地雷は銃や剣を用い
  た戦争とは目的そのものが違うと思うのである。
   外国の軍事支援介入後の現在は、国際社会と共に、欧米的価値観の支援を展開している。そして、そ
  れが民主主義に基づくと決め付けている。しかし、そのような支援が果たして彼らの役に立っているのだ
  ろうか?その国の社会建設は、その国の人たち(この国はアフガニスタンの人たち)が築くものであり、
  私たちが決めることではないと思うのである。
   戦争が終わったとき、国際社会は、戦争で衣食住を失い、今日生きることができるか、死んでしまうか
  という大変な彼らの状況に対して、彼らの生活環境を助けにきたのではなく、タリバーンが破壊したとす
  る教育の普及と、そのための学校建設や文房具の提供、女性の地位向上といった、欧米の近代価値観
  の支援を主に行ってきたのである。支援のあり方そのものに矛盾がある。バーミヤン遺跡がタリバーンに
  何時破壊されるかということを明確に国際社会は知っていたのに、彼らの破壊行為を黙認した。破壊さ
  れてから、遺跡の損失を嘆き、タリバーンにその責任を押し付けた。私は、国際社会が、バーミヤン遺跡
  の文化的価値よりも、タリバーンの無知な行動とタリバーンが支配するアフガニスタンに制裁を作る材料
  として利用したと考えている。国連軍を送ってバーミヤン遺跡を守る子時間や、タリバーンとの交渉をす
  る時間もあったのに、行わなかったのである。アフガニスタンで起こった全ての戦争の裏には、外国の介
  入と、戦争を利用した国際社会のアフガニスタンへの行動がこの国を、長年傷つけてきたと考えている。
   いよいよ、今年10月には、1920年以来の国民選挙が行われる。カルザイ政権は、アフガニスタンが民
  族に関係なく、アフガニスタン人として、再び1つの国として、戦いではなく話し合いをしてアフガニスタン
  という国をまとめようと、現在、各軍閥に協力を求めている。今までも、この国の大統領や指導者は、この
  ような動きを起こしていたが、外国の介入で各部族は対立していたのである。まだ、多くの問題を残して
  いるが、アフガニスタンの人たちは、アメリカを含めた外国の手に染まらないように、自分たちの手でもう
  一度、アフガニスタンの平和、そして、イスラームに基づく社会(国民の99パーセントがイスラム教徒とい
  われている)を作ろうという点で一致団結している。私は、アフガニスタンを中央政権だけでは、全ての土
  地を安全に統治できないことや、多民族の伝統社会がこの国にあるため、各部族の自治を尊重した中
  央政権ができればよいと考えている。私はアフガニスタンが再び平和になり、旧ソ連侵攻以前のように
  緑に包まれ、安心して生活ができる日を祈っている。

   第3章 「平和」について

   彼らは、"戦争のない国"として日本に憧れを持っていた。また、私たちの団体のように支援をしてい
  るNGOがあることから、アフガニスタン人にとって、日本は好意的なイメージであるという。私は彼らの話
  から、「戦争がないこと=平和」と考えているように感じた。アフガニスタンは、現在までの25年間に、旧
  ソ連軍の侵略、ソ連軍撤退後は、外国軍の介入も加わった各軍閥のアフガニスタンの主導権争い、そし
  て米軍の空爆と戦争と、日々戦争が続いていた。現在も完全に治安は安定していないが、大きな戦争
  が止まっていることから、人々は、平和が続くことを願っている。現在生き残っているアフガニスタンの人
  たちは、戦争や爆撃によって家族や衣食住を奪われ、破壊と悲しみの中を日々耐えてきた人たちであ
  る。彼らは、現在も心に爆撃の恐怖に苦しんであり、戦争だけはしないでほしいと私たちに訴えていた。
  カブールでは、戦争が終わり、生活品が市場に集まり、店も開き始め、人や車や自転車や馬車が道路を
  行き来し、生活が少し落ち着き始めていた。そのため、戦争がない日が続いていることに、人々は安堵
  感と将来への希望を抱いているように私は感じた。

   第4章 ブルカについて

   ブルカ(アフガニスタンでの女性の外出衣装)を着用していた人は、私が見てきた範囲では、カブール
  では70パーセントくらい(残りの20パーセントは髪が見えないようにびっしり黒や白のスカーフで覆ってい
  る)であり、ジャルボサラジでのブルカ着用割合は、100パーセントであった。
   ジャラボサラジは、カブールの北に位置しており、タリバーン支持者が多い南部のパシュトュン民族は
  いない。そのため、ブルカは、タリバーンが強制したのではなく、その村や町の話し合いや、昔からの伝
  統文化に基づいて試着がなされているようである。この現実をメディアは全く伝えないため、大きな混乱
  を国際社会に植えつけている。女性が外出時にブルカを着ていることは、昔からカブールでもジャルボサ
  ラジでも普通であり、この方がアフガニスタンの砂煙や排気ガス(車の黒煙や発電機の白煙)を防ぎ、男
  にじろじろ見られることなく、自分の身を守ることのできる最適の衣服であることをこの国の風土と4日間
  彼らを観察を通して感じた。私は、この衣装はアフガニスタンの知恵であると思った。昨年、全国のNGO
  が集まる国際協力フェスティバル(毎年10月上旬に日比谷公園で行われる)に参加したときにブルカを
  試着してみた。見た目よりもとても軽く、生地はとても薄かった。外から網目の中は見えないが、中から
  は、外をよく見ることができるのである。
   ブルカは、アフガニスタンの文化であり、日本でいえば雨のときに着るレインコートのような外出着なの
  である。また、ブルカは全身を覆う衣装であるが、スカーフのように顔を出すことのできるファッション着に
  もなるようだ。
   国際社会は、アフガニスタンのブルカは人権抑圧と決め付け、脱ぐことを押し付けているが、その考え
  は本当に正しいだろうか?と思う。アフガニスタンの人から見れば、外国の価値観の押し付けは大変怒り
  をかうのである。まして、なぜ今になって行うのか?女性が貧弱と見る外国の偏見と失礼さをこの国のた
  くましい女性と、大切に守られる女性を見て痛感した。本当にブルカが必要なければ、自分たちで変えた
  であろうと思うのである。価値観の違いから、私たちが口出しをして手を下す権利はないと強く感じた。
   そして、教育に関しても、アフガニスタンには女性にも教育の機会は、旧ソ連侵攻以前にはあったので
  ある。しかし、その後、戦争が続き、学校の崩壊と治安の悪化で、女性が1人で外出することが危険で
  あったため、女性の教育の機会が減っただけである。タリバーンの幹部や北部同盟の指導者のマスード
  は、戦争が終われば、女性の教育機会を作ると述べていたのである。つまり、足りバーンがいたから給
  行くが遅れたというよりも、戦争が続いたため、教育を受ける機会がなかったのである。
   カブールとジャバルサラジでは、親子が手をつないで歩いている光景を幾度と見た。この国では、親子
  愛を強く感じた。また、夫婦が寄り添って手をつないで歩く光景もよく見かけた。国際社会やメディアで取
  り上げるほど、女性への人権迫害は見られなかった。むしろ、戦争がなくなり、女性も生き生きと生活を
  しているようであった。子供をつれて買い物をしている姿、道路を家族で歩いている姿、診察に女性2人
  で訪問しに来たことや、夫と一緒に訪れる風景を見て、夫婦の絆や家族愛の絆を強く感じた。表舞台に
  あまり女性は出てこないが、女性は家事に励み、男性は家族が生活できるように外で働くことがこの国
  では行われている。夫婦がお互いを支えあっているのである。絶対に女性への侵害はないと私が言い切
  ることはできないが、欧米的価値観でこの国の女性のあり方を語ることは間違いだと思った。むしろ、地
  雷の撤去や病院の設備の強化、義足つくりなど、長年の戦争で、傷ついた人(男性や女性)たちへの生
  活のケアの方がずっと彼らが望む援助であると感じた。

   第5章 国際社会の支援のあり方

   私は、国際社会がアフガニスタンに力を入れるべき支援は、戦争で壊したものの修復であると考えてい
  る。そうでなければ、どんな支援であろうと、今まで起こってきた戦争は正しかったと支持したことと変わ
  らないと思うのである。また、本当の意味で、彼らの生活と心の傷を救うものにはならないと思うのであ
  る。彼らに支援をするなら、彼らが今後も生きていくことができる、持続可能な支援を責任を持って続けて
  いくべきである。また、戦争がアフガニスタンに何をもたらしたのか?彼らに必要な支援とは何か?を私
  たちが知るためには、戦争で被害にあった人たちの声を聞き、周辺地域との貧富を生むことなく、彼らの
  価値観に基づいて、支援をする必要がある。
   私は、国際社会がその地域の特性を活かさない、使いまわしの欧米思考の価値観と支援(パターン化
  した考えや支援の仕方)では、その地域の文化の破壊と混乱や失敗をもたらす可能性を多く秘めている
  と考えている。文化も言葉も価値観も異なる人に、同じ支援の使いまわしは、大変混乱を生むと私は考
  えているのである。そして、戦争時は危険だからと支援が最も必要なときには退却して、治安が安定し
  て、安全になってから支援を自分たちの価値観で行うという開発支配行為は、本当の意味で支援ではな
  いと思う。例として、一部を除く多くのNGOを含めた国際社会全体の支援は、ほとんどが首都カブールの
  英語を話すことができ、国連などに勤めている中流階級以上の声に叶ったものであり、治安が現在も危
  険である場所や、交通の困難な地方や、生活が困難な貧困者の声は活かされておらず、支援は現在も
  されていないのである。支援がなければ、今日住む場所も生きる場所もないという難民や迫害を受ける
  人たちが人間として自立して生活ができる環境を作ることが本当に必要な支援である。
   なんでもいいから支援すれば、教育や設備の遅れた途上国の人たちの生活に役に立つという考えは
  大きな間違いである。(そもそも世界のどの地域にはその土地にあった文化と生活の知恵があり、その
  知恵が、今日もその土地に住む彼らが生きていくうえで大きな力になっているのである。一つの知恵とし
  て教えることはよいと思うが、必ずしも教育がなければこの地域はもうだめだという場合は本当は少ない
  のである。そのため、支援を行うということには大きな責任がある。本当にその支援が絶対に必要と彼ら
  が本当に望んでおり、または、その地域全体の人たちが理解してくれるものでなければ、問題になるの
  である。また、支援を与えるだけでなく、もし、そのもの(学校などの設備や医療器具など)が壊れても修
  理や技術を教える支援をすることで支援を行った側が協力しなければ、一度そのものが壊れてしまえ
  ば、使うことができないため、その支援活動全体は無意味なものになってしまうのである。
   緊急物資支援(ビスケットなどの入った物の支援で、1日もしくは数日でなくなってしまう消費物資支
  援)については、しないよりは必要だが、このようなその場限りの支援では、数日立てばまた、物資をも
  らった人は必要であり、もらっていない人はもちろん必要なため、永続的に物資支援が必要になり、コス
  トや支援の効率は非常に悪いのである。彼らの自立や持続できる支援にはつながらず、彼らは、支援に
  依存した生活になるのである。緊急物資支援という最悪な状況になる前に、戦争を防ぐための支援や、
  本当に必要なものだけの支援を受け取り側と十分に話し合い、互いに納得して、協力できあう物事でな
  ければ、支援活動が双方に大きな問題を引き起こすのである。私は、アフガニスタンにおける本当に必
  要な支援は、かつて戦争が起こる以前にアフガニスタンにあった農業の復興や緑の復興、さらに、彼ら
  が生きていくための水支援や、病院や義足センターなどの医療施設や、物や人の流通を高めるための
  道路や川や橋の舗装支援、そして、大地に埋め込んだ地雷の撤去といった、戦争で破壊してきたものの
  復興であると思う。そして、それらを彼らが望んでおり、私たちが支援すべき事柄なのではないかと思う。
  また、あれもこれも支援するというやり方では、地域での格差や貧困も生む。また、支援をする側(NGO
  や国の機関)が、結束して、協力し合わなければ、資金の欠乏でプロジェクトが行き詰ることもあるの
  だ。
   支援は、戦争で苦しんだ全ての人にあるべきである。この国に来て、国際社会の偏見的な価値観の押
  さえつけ支援が大きな問題を生みかねない状態を現在も作っている。また、イスラームの教えに適さな
  い支援や、伝統社会を壊した国際社会の支援は、アフガニスタンの人々の間に混乱を作り、暴動やテロ
  を起こすきっかけを作っているのである。

   第6章 アフガニスタンを想う

   アフガニスタンは、戦争や旱魃で国は何度も崩壊し、人々は苦しんできた。しかし、彼らの笑顔と活
  気、人や馬車や自転車の行き来を見た時に、私は、その元気に圧倒された。そして、反対に私はアフガ
  ニスタンで元気を彼らからもらったのである。カブール市内では手押しポンプへ水汲みに行く子供の姿
  や、一生懸命ポンプを押している子供の懸命な姿がとても印象に残っている。カブールでは、家に、井戸
  やマスカットや家畜(鶏)を養っている家も多く、井戸は彼らの生活を支えているようである。一方、物売り
  をする子どもやお金を求めるブルカをつけた女性を多く見た。
   今回、私たちが訪れた場所と時間が限られていたため、アフガニスタンの現状をカブールとジャラボサ
  ラジの一部でしか見ることはできなかったけれども、一人一人が、自分たちの生活の向上と国内の戦争
  のない状態を願っていることを、インタビューや彼らの生活を見て強く感じた。
   アフガニスタンは、日本に比べて物は豊かではないが、人々の心は豊かであると思った。つまり、物に
  頼らずに、大地の恵みを人間が利益目的に利用して生活しているのではなく、自分たちで育て、使用し
  て生活しているのである。そのため、森林破壊やごみ問題というものはこの国に無いのである。戦争で
  緑は破壊されてしまったため、人々は、懸命に植林をしていた。
   アフガニスタンから帰国後、アフガニスタンで何が起こっていたのかをより詳しく知るために、北部の部
  族や軍閥をまとめた北部同盟の指導者マスードに同行していた日本人ジャーナリストの長倉洋海氏の
  著書や写真集、アフガニスタン南部で活動していた東京新聞カイロ特派員の田原拓治氏の著書などを通
  じて、現在、勉強している。将来、私が、アフガニスタン人の声に応えた支援をできるように、今回の訪問
  で感じたことを忘れずに日々生活をするつもりである。そのために、現在、アラビア語も学んでいる。

   補論 1 インタビュー

   運転手アビブさんのお父さんとアフガニスタン義股装具支援の会の代表の滝谷さんへのインタビュー、
  そして、自分の意見を以下にまとめた。

  Q:職業別所得の統計を教えてください。
  A:公的機関           月々150ドル
    警察             月々3000〜5000アフガニー
    学校の先生          月々2500アフガニー
    商人             月々3000〜9000アフガニー
    農民             月々約5600アフガニー
    失業者            月々2000アフガニー

   アフガニスタン政府は、失業者に、町の植林と木の手入れを奨励させており、その報酬として、彼らに
  給料を支払っている。

  Q:戦時中はどうやって生きていましたか?
  A:@パキスタンなどの周辺国へ逃げる。
    Aカンダハールなど、いろんな町を転々と逃げ回る。

  Q:その後どうしていましたか?
  A:家に帰ると井戸や家は壊されていたが、自分たちで修復して現在も生活を続けている。

  Q:この国に必要な支援は何ですか?(カブールとジャバルサラジの二箇所で聞いた質問)
  A:「道路や水やガスや病院、学校を支援してほしい。」という答えが返ってきた。
    ・つまり、生活そのものが大変であるのである。これら以外に、私が気づいたことは、カブールでは下
     水管理が全く整備されておらず、排水やトイレから出てくるものが道路に流れていた。そのため、その
     場所はとても臭かった。トイレなどの下水管理がこの国に必要だと感じた。

  Q:アメリカ軍をどのように思いますか?(カブールとジャバルサラジの2箇所で聞いた質問)
  A:「タリバーンを倒してくれた米軍に感謝している。今の平和は米軍のおかげである。」という答えが返っ
     てきた。
    ・この答えには驚いた。しかし、その後に次のように彼は述べた。「何もなく平和なので(今のままで)
     いい」。

  Q:家族構成はどのようになっていますか?
  A:子どもを5人以上作る家庭が多く、子どもは家事や労働をする。1家7人の家庭は普通であり、5人以上
     の子供を生むことを大変という感覚はない。また、親戚を隣や近辺に住ませ、空いている部屋は親戚
     に開放して、親族が助け合って共同生活をする。
    ・私は、私たちの別の運転手カイスさんの家に訪れ、彼にこの質問をしたとき、彼は、親族を含め、22人
     で隣同士に住んで、共同で暮らしていると述べていた。家のつくりや模様はアビブさんの家ととても似
     ていた。
    ・この国は、イスラームの教えによって、妻にする女性には、男性が、女性の家族に高額な結納金を支
     払うことが結婚の条件になっている。また、2人以上の妻を男性が持ちたいときは、妻の了解を得るこ
     とと、平等に2人の妻と関係を持つことが条件になっているため、心優しく、そして、お金持ちでない
     と、実際の生活は困難なため、2人以上の妻を持つ人はごくわずかである。
    ・また、イスラームでの1夫4妻までの制度は、イスラーム以前では、1夫多妻であったアラブ地域に女
     性の権利をもたらしたものである。現在の中東では、近年の不況で、男性がお金を集められない場合
     が多く、結婚年齢が20歳前後から年々遅くなったことや、親戚同士で、低額の結納金を支払って結婚
     する場合が増えているようである。

  Q:ゴミはどのようにして処理していますか?
  A:金物類は子どもが売っており、紙については、再度使えそうなものは、卵を入れる容器やダンボールと
     して再利用する。使えないものは薪代わりの燃料として使う。ペットボトルや缶はリサイクルに使われ、
    生ゴミは家畜のえさや燃料として使われる。
    ・このため、ゴミの回収というものはなく、どこかで使われている。私も町で見かけたが、子どもがゴミを
     拾い集めている。それらを彼らは様々な場所で売って、お金を蓄えているようである。

  Q:ポリオがアフガニスタンなど数カ国で現在も続いているが、いつから世界に生まれたのですか?
  A:昔から、謎の麻痺病気として、世界中で起こっていたもので、原因は現在も明確になっていないのであ
     る。予防接種によって、日本でのポリオ患者は、1972年以降は完全に撲滅している。

  Q:アフガニスタンとはどのような国ですか?
  A:アフガニスタンという国意識が地方に行くほど少ない。日本における江戸時代にとても近い感覚があ
    り、各軍閥が治めている領土を自分の国と考えている。その理由は、現在でも、各軍閥はその地域の
    市民を守るための軍隊を持ち、市民を守っているからである。その見返りとして、市民は税金や税関の
    徴収に協力している。その地域の政治や経済や法律は、その軍閥の指導者が決め、人々はそれに
    従っているため、人々は、その軍閥の指導者をお殿様と考えている。カブール藩、カンダハール藩と言
    う区分けであり、藩によって法律も異なっている。山奥に行けば、軍閥の色よりも、その村の伝統文化
    に基づいた社会と自治が行われている。そのため、カルザイ大統領をアフガニスタンの代表と考えてい
    る人は、大半はカブールの人であり、地方ではあまり考えられていない。
     また、カルザイ大統領の軍隊は、米軍であると考えられている。そのため、カルザイ大統領は、英米
    軍に操られている傀儡政権とも考えられている。
   ・もともと、アフガニスタンは、多民族が各々の文化と社会を持っていたため、西洋がもたらしたナショナリ
    ズムという概念は、この国には根付いていないようである。この大きな違いに私は大変驚いた。しかし、
    これからのアフガニスタンのあり方を考えたとき、各藩に共通した協定が必要であると思う。また、アフ
    ガニスタンにいる全ての人に共通していることは、皆イスラム教徒であるため、互いを同胞として、クル
    アーン(イスラム教徒の聖典)に基づく政治や経済や法律を軸にすれば問題は起きないのではないかと
    思う。

  Q:外国からの支援についてどのように思いますか?
  A:支援してくれることはうれしいが、支援を押し付けられることは困る。


  補論 2 アフガニスタンに行く上で準備してきたこと、反省点

   アフガニスタンで自分が何かできることをしようと考えた。そして、日本の文化を紹介して、楽しんでもらお
  うと、折り紙を出発前に勉強した。生まれて始めて自力で鶴が折れるようになり、その他、箱など簡単に作
  れるものをいくつか覚えた。アフガニスタン6日目の朝、私は運転手のカイスさんに折り紙を紹介した。彼
  は、紙から生まれる作品に興味を示していたので、作り方を教えた。彼は、すぐに日本人でも難しい鶴を折
  れるようになり、とても喜んでいた。私は彼の覚えの早さにとても驚いた。と同時に、人を喜ばせることがで
  きて、教える自分もとても面白かった。時間がなかったので、町の子供たちをつれてきてみんなで楽しむこ
  とはできなかったが、紙一枚で人を楽しませることができた折り紙教室は成功した。日本が世界に紹介で
  きる知恵であり、もっと日本の文化を習得したいと思った。
    一方、自分の着ている洋服がぼろぼろでなかったことから、物乞いの子供やブルカを着た女性からお金
  を何度もしつこく頼まれた。しつこく来る子供には、お金の代わりに飴をあげることにした。お金を与えるとさ
  らに頼まれる気がしたからだ。飴ならば、一時的にでも彼らの幸せを作れると思ったからである。しかし、あ
  る少年は、私が何度もお金を断り続け、距離をとっても、しつこく走って追いかけてくるので、とてもそのしつ
  こさが怖かった。飴をあげてはいたのだが、少し時間がたつと、お金をくれと、私の腕を引っ張ってくるので
  ある。その少年は、他の少年と違い、ごみ袋を手にぼろぼろの洋服に全身が黒く汚れており、さらにガサ
  ガサした手で、私の腕をひっぱって来るのである。また、あるブルカを着た女性は、私たちが町で買い物を
  しようと歩いていると、「MR,MR」とお金をくれと訴え続けるのである。断り続けても、後をついてきて私たち
  のメンバーの一員のようにどこまでも横にくっついて歩いてくるのである。店に入ると、店のドアから私たち
  が出てくるのを待っているのである。30分以上もついてくるのでとても怖かった。本当にお金がなくて困って
  いるのか、それともその逆なのかがわからないことや、お金を与えると、他の人にもさらにせがまれる可能
  性が高かったので、結局お金は与えなかった。彼らが去り、ほっとする反面、生活費を稼ぐために、必死な
  彼らの姿を見て、本当は、何もしてあげられなかった自分がとてもつらかった。また、今まで生きてきた中で
  お金をせがまれることがなかったので、とても怖かった。
   運転手のカイスさんは、高校まで学校に行け、親からパソコンをもらえるほど、そこそこ生活が豊かな一
  方、その日の暮らしを物乞いをして生活をする人が町には多くおり、貧困の格差をはっきりと感じた。
   私たちの国、日本をはじめとする国際社会の起こした行動の責任は本当に大きなことだと、この旅を通じ
  て常に感じた。例えば、支援が必要なはずの物乞いの人たちに届いていないからである。