ICE CUTTER 1994
――1993年度 室井ゼミナール 卒業論文集――
序言 「ICE CUTTER 1994 」に寄せて
本書は、私のゼミ、第10期生13名の卒業論文集である。私が専修大学に職を得てから、今年の春で13年の月日が経つ。この間、社会に巣立っていったゼミ生は、今期生を含めて総計83名である。当初から、このゼミの雰囲気は摩訶不思議であった。ゼミのテーマが「第三世界」―この範疇は、「日本における、周辺化された部分」をも含む、広義の概念である―ということもあって、ゼミに集まった学生たちは、現代社会の底辺や裏側の世界に強い関心を抱く、それぞれにユニークな個性の持ち主であった。
もちろん、この10年間の時代の変化に応じて、それぞれが直接に関心をもった個別テーマは様々であったが、あえて整理すれば、「社会的弱者と差別」「経済活動と自然環境」「第三世界諸国の社会経済発展」「日本の農業問題」そして「自己の存在理由」などが、各ゼミ生に通底する主要テーマであったように思う。いずれの世代においても、各人の卒論テーマは、これらの問題群に多かれ少なかれ言及するものであった。
こうしたゼミ生に対して、私は二つのことを繰り返し述べてきた。その一つは、既存の経済学の枠組みに囚われないで、各自の「直感」を信頼しつつ、自由な発想から物事を考えてみてはどうか、ということであり、もう一つは、その際に、各自の生活空間の場に視座を定めて、「自己存在」との関連の中で、それぞれの問題群に接近してみてはどうか、ということであった。「他人の言葉」による、経済的データの「解説」に終始している論文や、「私」や「私との関係」が少しも見えてこない論文は、私はあまり評価したくない。というのも、「第三世界」を対象に人々の「顔」の見える分析をしようと思えば、経済分析のみではとうてい無理であるし、この「顔」が他人のそれのみならず、自らのそれをも映し出すものでなければならない、と考えるからである。
学生の卒業論文とは、4年間に学んだ「知識」を教師に披露することではなく、各人が「自らの生き方=思想」を模索する第1歩である、と私は思う。社会的地位やお金ではなく、この確固とした「思想」こそ、社会の荒波に揉まれるであろう卒業生の、最大の武器になるに違いない。それぞれの「思想」は今後さらに磨かれるべきものであるが、それはまた、不条理な現代社会を変えていくための、次の世代に継承されるべき財産にもなると思う。
このゼミがユニークであるというのは、いつの世代においても、私の一方的な「思い入れ」を各人が柔軟に受け止め、一見、それぞれが勝手な方向に走り出しているようにみえても―卒論テーマの不統一性にみられるように―、「最後には自分について語りなさい」という私の「教え」をそれなりに守っており、その「語り口」に、各世代、各論文を貫く<一本の赤い糸>が私には不思議と見えてくる、という意味においてである。第10期生13名の卒業論文も、またそうであった。
第1章「もうひとりの自分―森林とは何なのか」(高林 由起子)
題名が抜群である。中学生の頃、父にいやいや連れて行かれたという尾瀬の「ぞっとする美しさ」に心底惚れ込み、以来、ことある度に尾瀬に想いを馳せていたであろう通称「ヤシ」(タカバヤシの語形変化か?)が、なぜ、「尾瀬の自然破壊」などという、ありきたりの題名をつけなかったのか―たいていの読者は、そう疑問に思うはずだ。しかし、この題名にこそ、筆者の考えが象徴的に集約されている。
近年の深刻化する自然破壊に対処するため、多くの保護団体が特定の自然領域から人間を締め出そうとしており、尾瀬の場合には、稜線内から山小屋を撤去すべしとの提言が出されている。しかし、人間と自然との隔離という発想自体、何か間違ってはいないか―筆者のこうした問題提起は、すぐれて的をついている。進級論文で横浜の「浮浪者問題」を取り上げ、彼らの「排除」に疑問を抱いた筆者であったからこそ、自然と人間との「隔離」ではなく、両者の「共生」という思想にたどり着けたのだと思う。
本来、生態系としての森林は「遷移」という自然の営みをもっており、尾瀬もまた、やがては乾燥化し陸地化する運命の中にある。この遷移の流れの中で、人々は森林と関わり、その恵みを享受してきた。自然を一方的に隔離・保護しようというのは、自然の営みを知らない人間の驕りにすぎず、むしろ、私たちが模索すべき道は、自然と人間との「交通 Verkehr」である。尾瀬は、底知れぬ包容力を持っているのであって、決して私たちに怒ってはいないし、また、たとえ黄色に変色したお化け葉っぱが出現しようとも、それもまた、紛れもなく私の好きな尾瀬である。私は、これからも尾瀬ガ原を歩き続けたい。なぜなら、その移り行く姿は、「私自身の姿
Doppelganger」でもあるからだ−−これが、本論文の結論である。
私は、この論文を読んで、腐海を守る王蟲の話を想い出し、また、尾瀬の水面に将来の自分の姿を見つけようとしている、ナウシカならぬ高林さんの姿を見た。
第2章「福祉社会に向けて」(佐藤 有香)
眼鏡をかけた有香さん、はずした有香さん、変わった雰囲気がそれぞれにいい―卒業生の佐藤円さんと区別するため、名前呼びが定着した―。この有香さんが福祉問題に関心を持つようになった一つのきっかけは、自身の視力にあった。「このまま目が見えなくなったらどうしよう・・・」。福祉を自らの問題として捉え、それを、大学4年間のゼミやサークル活動、そして就職活動において実践したところに、頑張り屋・有香さんの出色たる所以がある。
「これまで、福祉問題に関する著書や論文をかなり読んできたが、福祉と経済成長との関係を論じたものが意外に少ない」― これが筆者の出発点である。経済不況が深刻化する1970年代半ば以降、「低成長・低福祉」政策が採用され、「福祉見直し論」が世界的に台頭してきた。確かに、財政的見地からすれば、福祉は非効率的であろう。だがそれを認めてしまえば、経済効率優先の社会では、そもそも福祉社会は実現しえなくなるのではないか。いったい、我々が目指すべき福祉社会とは、何であるのか。
こうした問題意識のもとに、筆者は、まず福祉先進国ともいえるイギリス、アメリカおよびスウェーデンにおける経験を歴史的に考察している。そこで明らかにされたのは、「全ての国民に対するナショナル・ミニマム」や「国民の権利としての社会保障」を獲得し、かつ「経済大国から生活大国へ」移行することの重要性であり、また、各国における福祉の実践が、常に経済不況や戦争などの影響を受けてきたことであった。
大きく言えば、日本の福祉も例外ではないが、日本型福祉社会を実現するためには、経済的基盤を確保すると同時に、福祉そのものにも一定の効率を追求していくこと、つまり、経済と福祉とのバランスが必要である―これが、本論文の結論である。
「福祉社会」とは「生活する全ての人々にとっての社会である」という主張に、「ノーマライゼーション Normalization」の意味を一歩深めて読み取った有香さんを、私は見い出した。[追記:有香さんは川島記念学術賞の栄誉に輝いた。おめでとう!]
第3章「東南アジアの華僑―落地生根」(任 紅燕)
「任さん自身は、自分のことを華僑だと思う?」と聞いたことがある。その答は「否」であった。私自身、西アフリカのハウサ商人やジュラ商人などとともに、国境を超えた商業活動に歴史的に従事してきた華僑には、大きな興味があった。ただ私は、自分の研究テーマに引き寄せる余り、華僑=商人という、狭い考え方に囚われていたようである。我がゼミの非華僑・任さんは、何よもまず腕のいい料理人であった。
筆者は、まず華僑に対する誤ったイメージを払拭することから書き始めている。一般に「華僑」と呼ばれている人々は、その出身地・言語集団・職種において多様であり、それぞれが居住する地域も広範囲に及び、それぞれの社会への適応の仕方も異なる。海外に5,000
万人の華僑がいるとすれば、この多様性は当然のことであろう。
かつて祖国を離れた華僑たちの多くは、異国で蓄財し、一日も早く故郷に錦を飾ることを夢見たという。すなわち「落葉帰根」であるが、日本語・英語流に言えば、「還流的移民
Return Migration」ということになろう。しかし筆者によれば、今日の華僑たちは、居留国に定着し同化する傾向を強めており、経済活動のみならず、現地社会の政治や文化など、多方面に亙って活躍する者が多い。居留国で生まれ、その国の国籍を持つ多数の「華人」たちを含めて、「華僑・華人社会」が形成されつつある。「落地生根」である。近年における「華南経済圏」の発展は、こうした華僑・華人たちの活躍によるところが大きい、と筆者は述べている。
しかし、私自身は「落葉帰根」でも、「落地生根」でもない。自由自在に世界中を往来できる、文字通りの「自由人」でありたい。そうした「自由人」として、日中貿易の「架け橋」になりたい。それが結局、祖国の発展に貢献するのだから―こう言い切る任さんの笑顔は、実に爽やかであった。
「架け橋」―これもいい言葉である。私は、日本列島と中国大陸の間に架かる大きな橋を「自転車」で往来する任さんの姿を、ふと想像してみたりした。
第4章「この壁が見えますか―在日韓国・朝鮮人問題」(荒木 雅代)
これまた、出色の題名である。荒木さんが「在日韓国・朝鮮人問題」という見えない壁に手で触って、その輪郭を確かめ、そしてその壁を突き崩したいと思うようになったのは、恐らく、本学の短期留学制度によって韓国を訪れたことから始まったように思う。もちろん、大多数の学生とは異なり、荒木さんが留学先にアメリカやイギリスを選ばなかったことを考えると、以前からこの壁の存在に薄々は気づいていたのであろう。短い期間とはいえ、1ヵ月も滞在すれば、若者の間でなら何人かの親しい友人ができるであろう。この論文からは、そうした韓国の友人たち、そして、その友人でもある在日韓国・朝鮮人の友人たちを何とか理解したい、という筆者の想いが伝わってくる。
「実態を知ることこそが、差別をなくす第一歩である」という筆者は、『神奈川県内在住外国人実態調査』など、一般には入手しにくい資料を利用したり、また実際に川崎市の関連施設を訪れたりして、在日韓国・朝鮮人の日常生活や、彼・彼女らを取り巻く様々な壁(行政・法の壁、社会の壁)をかなり詳細に明らかにしている。そこには、外登法・入管法・国籍条項など様々な「日本国家」の壁があり、加えて、韓国・朝鮮人は雇用したくない・彼らにはアパートを貸したくない、などという「普通の日本人」の、これまた厚い壁が存在する。
彼・彼女たちは、何故、言われなき差別を受けるのだろうか。この差別をなくすために、私たちには何ができるのだろうか。実態を知ることから始めて、そして少なくとも私自身は、差別する側には立たないようにしたい ―これが、本論文の結論である。
一見、この結論は何の変哲もない、当たり前のことのように見える。しかし、こうした単純な結論を、真に自分の言葉で語れることが大切なのである。私は、この論文を読んで、これまた一見、か弱そうな荒木さんの中に、しっかりとした一本の芯を見い出せたように思う。[追記:荒木さんは卒業後結婚することになった。おめでとう!]
第5章「歯車としての人間社会―江戸の物質循環から考える」(田村 清美)
名著『都市と農村の間』(論創社)の著者、渡辺善次郎氏の出席した教員主催の研究会で、「元気のいい女子学生」と、高く評価された田村さん。私もそう思う。田村さんの「元気印」は、前作の進級論文「栃木県国分寺町のごみ分別収集の実態とその要因」を走り回って書きあげたことで、既に実証済みである。頭で考え、足で稼ぎ、腕力で書く―これが論文作成の3大原則であるが、田村さんは、これを知っていたようでもある。
「確かに、ごみの分別収集は実現可能であるし、それによりごみ処理も容易になる。しかし大事なことは、廃棄物を可能な限り出さないこと、つまり、自然の物質循環の中に廃棄物を送り返してやることである」―問題の所在は極めて明快である。しかし、この単純なことが、近代社会では実に難しい。そこで筆者は、当時世界最大の都市でありながら深刻なごみ問題には直面しなかったと言われる、「江戸」の分析を試みる。
結論を端的にいえば、江戸でごみ問題が生じなかったのは、江戸市民の排泄物が近郊の農村で肥料として利用されて野菜などが生産され、その野菜が江戸市民の食卓にのぼるという形で物質循環が行われていたからであり、加えて、同じ古着が「ボロ市」に何度も出回ったように、江戸が徹底した「リサイクル都市」だったからである。
だが、こうした物質循環やリサイクルは、江戸の肥大化・近代化とともに、すなわち、排泄物が「下水道」に流されることによって、また、「ボロ」が「ゴミ」と見做されるにつれて、崩壊してしまった。こうした江戸=東京の経験を踏まえるならば、私たちにとって必要なのは、人間社会が何よりもまず自然の物質循環の中の歯車の一つにすぎないことをしっかりと認識しつつ、「ボロ」を復権させて「静脈産業」を活性化させることである―これが、本論文の結論である。
川越の成田山(寺院)では、毎月28日に「のみの市」が開かれる。田村さんに、一度足を運んでもらうのもいい、と私は思った。ちなみに、我が家の玄関に飾ってある般若のお面は、市内の別の「のみの市」において、格安で見つけた掘出物である。
第6章「あなたは子供たちに胸を張れますか―コメ問題を考える」(池羽 仁志)
「この問題について、君の父にぜひ意見を聞き、それを論文に明示しなさい」、という私の要望を聞いていたのか否か・・・。シャイな池羽君は、卒論発表の時に、「本当にやりたいのでなければ、跡は継ぐな」と言われた、とボソッと語っただけであった。だが、論文それ自体の論調は快刀乱麻で、合宿研究を締め括るゼミ長にふさわしく、皆の議論を大いに盛り上げてくれた。
「昨今の米の市場開放を巡る議論には、賛成派・反対派ともにおかしな所がある」という筆者は、両者の主張点を逐一批判しつつ、次のように述べている。すなわち、自由化賛成派の本当の狙いは、貿易摩擦の解消・労賃コストの引下げ・大企業の米市場支配・農民の賃労働者化の促進にあるのであって、他方、自由化反対派に見られる「米鎖国論」や「環境にやさしい稲作論」などは、農業幻想に取り憑かれた議論であると言わざるをえない。真の問題は、自由化の可否それ自体ではなく、非現実的な食管制度・後継者不足・水田の荒廃など、日本の農業が瀕死の危機に直面しているという点にある。
この危機を打開するためには、国内市場を自由化して生産・流通構造を再構築すると同時に、新しい田んぼ造りを行なって、次の世代の子供たちに胸の張れるような、安全かつ儲かる農業にしていくことである―これが、本論文の結論である。
だが、本論文の面白さは、こうした自由化論議に留まらず、日本農業の歴史を振り返ってみた点にある、と私は思う。「縄文人が米作りを始めたのは、稲の成長に楽しみを感じたからである」という池羽君の直感は、傾聴に値する。「やむにやまれぬ農業」ではなく、「楽しい農業」こそ、我々が子供たちに継承すべき農業なのである。
第7章「甦るアフリカ−−危機からの脱出」(浪江
良征)
ここで改めて強調しておきたいが、私の専門はアフリカ研究である。全国の大学でも数少ない、このアフリカ研究者のゼミナールにあって、アフリカ問題を卒論のテーマに選ばないとは、何事であるか。いや、一人いた。浪江君である。「卒論のテーマ設定は、一切自由である」という寛大(!) な処置の中にあって、今年はもうゼミ生のアフリカ関連論文を読めなくなるのではと恐れつつも、不思議と毎年一人はいるものである。私にとって、浪江君の存在はとても貴重であった。
「アフリカの危機とは何か。最大の危機は貧困であろう。では、何故アフリカは貧困に陥り、そして飢えるのか。この危機から脱出する道はあるのか」―このように問題を提起した筆者は、自然的、社会的、経済的、世界経済的、政治的、そして軍事的要因という、実に多様な側面からの考察を行なっている。長文の力作である。
本論文で明らかにされたことは、自然災害が飢餓の直接的原因ではないこと、食料輸入がアフリカの農業を破壊していること、今日の経済危機と国家機構の危機が植民地遺制に起因すること、軍事化が危機を一層悪化させていること、ODAのあり方が再検討されるべきことなど、実に多方面に及んでいる。
では、こうした危機から脱却するために、どうすればいいのか。民意を幅広く公正に汲み取る政治体制の確立こそが、急務である。その際に、もちろん、先進諸国の協力も必要であるが、アフリカの自助努力こそ必要である ―これが、本論文の結論である。
「先生は、なぜ、ナイジェリアに興味を持たれたのですか」―浪江君に、こう聞かれたことがある。正直言って、その答は案外難しい。あえて言えば、「ビアフラ戦争」の犠牲となり、飢えて死んでいった子供たちの写真が脳裏に焼きついたから、とでもなろうか。アフリカの危機を、マクロ抽象的な「国家」や「社会」の危機としてではなく、「人々」の貧困や飢餓に求めた浪江君の視点には、私のそれと通底するものがある。
第8章「ユダヤ民族―誰がユダヤ人か」(渡邉 美佳子)
他の6名のゼミ生とともに、渡邉さんとは1年次の基礎演習・自主ゼミ以来、4年間のつき合いであった。その渡邉さんが初波荘の二階の部屋でワープロを打っていた姿(写真)は、私の記憶に長く留まるであろう。もちろんそれは、懐かしい記憶として、である。
さて、「華僑」とともに、「ユダヤ民族」というこのテーマもまた、大変興味深い。「共同体の狭間に生きた商業民族」という点で、両者には共通するものがある。前回の進級論文では、ユダヤ民族がローマに支配されていた、3世紀前半頃までの歴史を考察していたが、今回の卒論では、「ユダヤ人は一民族として如何に生きてきたのか、何故に迫害されてきたのか。そしてそもそも、民族とはいったい何なのか」という問題設定を行なっている。
まず筆者は、「民族」を厳密に定義することは不可能であると述べると同時に、「創造された民族」という範疇を提示している。換言すれば、「自らをユダヤ人と規定した者」、あるいは「他からユダヤ人と規定された者」こそがユダヤ民族であった、ということになる。そして、さほど特別な存在とは思えないユダヤ民族が迫害されたのは、彼ら自身が「異なる民」たり続けようとした、その頑な姿勢に起因するのではないか、と筆者はいう。
迫害を受け「離散」したがために、民族としての精神的統合を守ろうとし、それがまた更なる迫害を呼ぶ。ここに出口はない。ユダヤ人の歴史は、常に他民族との差異を追い求める歴史であったが、しかしそうではなく、他民族との共通性を見い出すことこそが重要である。この意味においても、血統・人種・言語などの差異によって諸民族を「分類」すること自体が間違いでなのである―これが、本論文の結論である。
「民族」という範疇の最終的な否定に到達しえたという点において、私は、この4年間における渡邉さんの大きな思想的成長を見たように思う。
第9章「自分らしさを求めて―個性とは何か」(杉山 伸子)
既に触れたように、「自らの生き方=思想」を模索することにこそ、卒論の存在理由がある。いつも明るく笑っていた杉山さんが、決して軽くはないこのテーマに、真正面から取り組んだ。「個性とは何だろうか。なぜ個性が必要なのだろうか。そして自分らしさとは、自分とはいったい何だろうか」―これほど単純で、また答えにくい問いは少ない。
この論文におけるキーワードは、それ自身、異質性を有する「モナド=単子
Monade」である。そして、この「モナド」がそれぞれの仕方で、全体としての「大宇宙」を表出する。筆者は、「個=個性」と「全体=社会」との関係を、この「モナド=小宇宙」と「大宇宙」との関係になぞらえて考察している。すなわち、ライプニッツは「モナド」の存在様式は「大宇宙」によって決定されると考えた(と、筆者は理解した)が、筆者は、そうした考え方に不満である。「個」は「全体」によってではなく、「個」の意思によって決定されねばならない。「個」は、「全体」の環境に適応し自由を獲得するためにも、独自の運動法則としての「個性」を獲得せねばならない。それがまた、「人間らしく」生きること・働くことにも繋がるのである。
だが、ある個人の「個性」は、他人のそれとの相対関係において初めて規定される。とすれば、他人との友好的なネットワークがぜひとも必要になる。だが現代社会では、このネットワークが、他人を顧みない自我の横行によって、ややもすれば解体する状況にある。「自分らしい生き方」とは、「モナド」間のネットワークを維持しつつ、「モナド」として独自の道を歩むことである −これが、本論文の結論である。
杉山さんは、就職を控えて初めて、自分について深く考えたという。私は、この論文を読んで、杉山さんが「大宇宙」の雰囲気を規定するような、個性豊かな「小宇宙」として、自己形成していって欲しい、と思った。
第10章「都市性の追究―関係の創造」(川村 芳人)
「何とか自分の考えを纏めることができて、それなりに満足しています」という川村君に、私も一安心したものである。恐らく言葉を失っていて、どうしても書けなかった進級論文、川村君にとっては苦痛であったに違いない。卒業までに―最悪の場合には、社会に出てから―何か書けばいい、と私は思っていた。時折発する川村君の言葉の中に、何かキラリと光るものを感じていたからである。長文のイントロダクションも、面白く読めた。
筆者は、アルバイト先の晴海や幕張で、不思議な体験をしたという。コンクリート剥き出しの単なる屋根付きの空き地が、一瞬にして、賑々しいショールームや音楽会場に変身する。この落差は、いったい何なのか―筆者が「都市性」という範疇を獲得したのは、こうした体験を通じてであったように思う。
この論文で面白いのは、第2節以降である。筆者は、そこで「空間」と「場所」について考察している。筆者によれば、「空間」はその抽象性ゆえに、人々に恐怖や拡散を意識させるのと同時に、「自由」を与える。他方、「場所」は人々を拘束し保守的にさせるのと同時に、「安定」をもたらす。そして、「空間」に投げ出された人間は、その恐怖ゆえに安定した「場所」を形成しようとするが、やがてその拘束から逃れたくなり、再び自由な「空間」に舞い戻ろうともする。
人間が都市に集まるのは、そこに、
「向こう側にある世界」を感じさせるもの、すなわち「都市性」が存在するからである―これが、本論文の結論である(私自身は、相互に代替的な「空間」と「場所」を有するという、都市の両義性を強調してみたい気もするが)。
川村君をはじめ卒業生たちは、ゼミという「場所」から、社会という「空間」に投げ出されることになる。その「空間」において、再び自分の「場所」を探し求めている川村君の姿を、私は想い浮かべてみた。
第11章「部落解放運動の展望」(村尾 孝一郎)
現代社会においては、様々な水準の差別が、様々な場所で存続している―このことは、周知の事実である。だが、その差別が余りにも身近な場合、逆に我々は、往々にしてその存在を無視しがちである。村尾君の出色たる所以は、そうした差別の一つである部落差別を、高校生の時以来、ほぼ一貫して直視してきたことにある。また、一年次生の時と比較すると、文章表現も別人のように巧くなったし、豊富な一次資料もかなり読みこなしていると思う。
「何故、部落差別はなくならないのか。それは、人々の意識が低いからである。しかし、意識の高揚を阻害している一つの要因に、解放運動団体の行き過ぎた姿勢・糾弾闘争があるのではないか。我々にとって、差別撤廃のために、何が必要であるのか」―明快な問題設定である。
まず筆者は、部落差別の何たるかを再考するため、差別の起源、解放運動、及び同和行政を歴史的に考察し、それらを踏まえて、部落差別の特殊性は「見えない差別」という点にある、と述べている。次に筆者は、同じ運動団体と言っても、「国民融合」を主張する全解連と、「部落民としての解放」を主張する解同との間には大きな対立があること、また、厳しい糾弾闘争が、部落問題をタブー視させるという皮肉な結果をもたらしたこと、などを指摘している。
真の部落解放のためには、差別の存在をきちんと認識し、解放のビジョンを明確にするとともに、糾弾ではない公開討論の場を増やし、行政上の制度的差別を全廃することが必要である―これが、本論文の結論である。
もちろん、人々の深層に潜む心理的差別を全廃することは容易なことではない。だがそれは、議論を通じた相互理解によって克服されるべきものである―声を大にしてこう言い切る村尾君は、4年間のゼミ活動の集大成をなし遂げた、と私は思った。
第12章「長寿社会―その活性化に向けて」(福田 康彦)
福田君もまた、身近な問題に終始関心を寄せたゼミ生の一人であった。普段は紳士的な福田君であるが、その彼が熱弁を奮った卒論発表は、とても印象的であった。また、酒のあまり飲めない福田君であったが、酒好きの多いこのゼミに、4年間も良くつき合ってくれたと思う。
「高齢化社会」というと、何かしら重くて暗い感じがする。しかし現実には、健康な老人の方が大多数を占めているのである。活気ある「長寿社会」への模索こそ、我々がなすべきことである−−これが、本論文の出発点である。
筆者は、高齢化社会に至る人口の推移や、労働・消費・家族構成の変化と高齢化問題についても分析しているが、本論文の面白さは、「老人の社会的地位の変遷」を歴史的に考察した点にある。すなわち、古代において老人は尊敬の対象であり、中世では、鬼でもあり神でもあるなど、老人は多様な顔を持っていた。また近世では、「孝」の原理よって老人扶養が行なわれていたが、近代における扶養は、尊属優位の原則の下で行なわれるようになった。こうして、それぞれの時代にそれぞれの老人の姿があったことが分かるが、とりわけ近代社会においては、次代の労働力を確保するという政策から子供の扶養がより重視されるようになり、これに反して、老人の社会的地位が後退していった、と筆者は述べている。
それでは、長寿社会の活性化のためには何が必要なのか。高齢者の「社会参加」を推進させることが最も大切であるが、そのためには、雇用機会の創出、ボランティア活動の場の設定、家族との交流などが、さらに必要になってくる。活力ある長寿社会とは、高齢者の社会参加の選択肢が豊富な社会のことであり、また、それを通じて高齢者が自立した生活を営めるような社会のことである―これが、本論文の結論である。
高齢者へのいたわりに溢れた福田君であるが、これからも理想とすべき長寿社会を目指して欲しい、と私は思う。
第13章「現代社会と現代人の精神」(佐伯
圭介)
いわゆる「基礎演習トリオ」の一人として、佐伯君はとてもユニークなゼミ生であった。また、川村君とともに、『いちご白書』を地で行った佐伯君でもあった。数回に及ぶ合宿係、ご苦労様でした。第10期生卒業論文集の、トリオならぬ「トリ」を務めるのに相応しい人材だと、私は思う。 様々な局面において高度化する現代社会であるからこそ、そこで生じる問題も複雑さを増している。社会制度上の諸問題のみならず、とりわけ人間精神に関わる諸問題は、その解決が一層困難になってきている。だが、これらの現代的諸問題は、別個のものとして存在しているのではなく、相互に密接に関連している。それらに通底する普遍性とは、いったい何なのか―これが、筆者の問題関心である。
筆者は、大きく社会環境的側面と人間内的側面の両面から、縺れた糸をほぐそうとしている。その切り口は、実に多面的である。科学進歩の諸影響、メディア社会の持つ意味、日本人のアイデンティティー、教育レールに乗せられた子供たち、日本式民主主義の特異性、現代人の無関心、私空間の中の他者の視線、仮面の裏側、若者における流体意識と剛体意識、芸術における自我、現代人の時間意識、胸がドキドキする時、安楽への隷属、等々である。
現代社会という化け物に食べられないためにも、すなわち、人間性を放棄しないためにも、現代社会の様々な病理を克服し、自らの「生」を充実させねばならない。もしかして、既に片足を食べられてしまったのかも知れないが、完全に飲み込まれないためにも、私は闘い続けるのだ―これが、本論文の結論である。
「胸がドキドキするような人生を送りたい」―これが、佐伯君からのメッセージである、と私は読んだ。私も、そして皆も、そうしたいと思っているはずである。