21世紀の大学群像

21世紀の大学群像

〈創立一三〇年〉「姿態変換」する専修大学――全入時代に向け、
         大学の存在意義を問い直す――

                          専修大学経済学部長

室井 義雄 氏

                                                                                 大学とは何か

今日、大学は少子化による全入時代を迎え、国、公、私立を問わず、生き残り策に必死の状況です。しかし、反面、大学の存在意義や理念の欠如に繋がる危険も含まれています。

 室井 「university(大学)」という言葉は、元々ラテン語に由来しています。それには、宇宙、全人類、統一的世界、普遍、森羅万象、博識、自由自在など、多様な意味が含まれており、多くの場面で使われています。

 例えば、「universiade」国際学生スポーツ大会の意味ですが、「uni」は一つの統一体を表しています。そこから転じて、「university」には「学問の共同体」という意味が付与されました。しかし、大学というものは、教師が一方的に講義を行うだけでは不十分であり、教師と学生の両者が主体的に参加してこそ成立する、共同体としての知的空間なのです。学生が自らの知的好奇心に基づきテーマを見つけて学び、様々な疑問を教師にぶつける。そうした教師と学生との相互交流がないと、それは共同体とはいえないと思います。ところが、規模の大きい大学では、こうした大学本来の講義が成立しにくくなっているのも現実です。そこで、本学の経済学部では、可能な限り、小人数による講義を行うべく努力しています。例えば、一年次生向けの入門ゼミナールでは、一つのクラスが二〇〜二五名ですから、なんとか「学問の共同体」としての空間を維持しています。

「大学」の名に恥じない密度の濃い講義を継続することは、やはり、大変なのですね。

大学で自分探しの旅

 室井 他方で大学は「自分探しの場」でもあると思います。近代における最古の大学はイタリアのボローニャ大学(一〇八八年創立)といわれていますが、この大学が創立当初に教えていたのは、神学、法学、医学、哲学でした。ここで注目したいのは、哲学です。つまり、大学は専門的な知識を学ぶだけではなく、自分を探し出す場でもあるのです。それは、広い意味の哲学に通じると思います。

 難解な理論を展開することだけではなく、そもそも自分とは何かを考え、突き詰める、それが哲学でしょう。大学は、四年間という自由な時間を持つことのできる貴重な空間であり、是非とも学生には、自分は何者なのか、何処に行こうとしているのかという、「自分探し」の旅に出て欲しいと思っています。

 そこで私は、常々、本学の新入生には次のように言っています。「皆さんは、経済学部に入学されたが、経済学科あるいは国際経済学科の哲学専攻だと思って欲しい」と。

学生達の反応はどうですか。

 室井 最初は「アレッ」という感じですが、自分探しの旅というと分かってくれます。大学では高校までの勉強とは全く異なり、自分自身で興味あるテーマを見つけることが、学問の前提になります。しかし、そのテーマを見つけることに、今の学生は苦労しています。ところが、様々な迷路に迷い込んで、行き戻りしているうちに出口が見えてくるものです。そのためにも、まずは迷路に迷い込んで、そこから抜け出すための小旅行をして欲しい。その過程で自分探しをして欲しいのです。

私どもの学生時代もそうでした。自分探しの背景には、教養も必須ですね。

 室井 多くの大学人が悩ましく思っているのは、その教養課程の在り方です。教養課程が不十分ならば、専門課程にも悪い影響を与えます。私はむしろ思い切って、文系学部には理系の教養科目、理系学部には文系の教養科目を豊富に提供して、専門と教養、文系と理系が相互に補填し合えるような機構改革が必要ではないかと考えています。しかし、言うは易く、行うは難し、という現状です。

そうした中で、全入時代における大学の存在意義も見出していかねばならない。

 室井 先程、大学の語源に触れましたが、「university」が持つ広い意味で言えば、全人類的なユニバーサルな視点で、国境を越えて俯瞰し考える教養や知識を滋養することが、大学の学問であり、重要な存在意義だと思います。そして、もう一つ、自由自在という意味において考えると、大学の四年間は結構長い。その大学での生活は、人生の中で極めて貴重な時間=空間です。このことも、大学の貴重な存在意義の一つですが、学生は早くそれに気づいて、できれば、アルバイトなどはほどほどにして欲しいですね。

卒業後に初めて分かることでもありますね。

 室井 そこです。今後、団塊の世代が続々と定年を迎えますが、彼らの定年後の行動には大変関心を持っています。彼らが定年後の人生の中で大学をどう位置づけるのか。大学側にも、これまでとは違った教育活動が求められるでしょうね。経済学部でも毎年、両学科が交替して生田校舎で社会人向けの公開講座を開いていますが、百名を越える方々が参加されています。その中には、かなり年配の方々も見受けられる。講義内容には、A・スミスやK・マルクスなど、相当難解かつアカデミックなものも含まれています。学生時代に同じ話を聞いても、多分、理解に苦しむ内容だと思うのですが、皆さん、関心を持って熱心に聞いておられる。参加される側の知的水準が相当に高くなっています。私たちも大いに刺激を受け、本学の今後の在り方としても参考になっています。

社会人は常に人、物、金、情報に追われている。ある面、うんざりしている。知的な学問への要求が相当に高い。

 室井 その通りです。従って、大学はそうした所謂「大人」の要求にも応えていかねばならない。知の最高機関として、やるべきことは本当に多いことを痛感しています。しかし一方では、大学全入時代ということもあって、大卒がエリートといわれる時代はほぼ消えてしまい、一体、大学は何をなすべきなのか、さらに、大学は何をしてきたのだろうかと、つい、足を止めて考えることもあります。

それはどのようなことですか。

エリート神話の崩壊と近代科学技術への懐疑

 室井 大学人の一人として、私が決定的な転換期と思った年があります。それは、二つの大きな事件が発生した一九九五年です。その年、私はナイジェリアの国立国際問題研究所に留学中だったのですが、一つは、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」が起きました。ご承知のように、死者が一二名、負傷者が五五一〇名という大惨事でした。ロンドン経由で知ったこの事件の悲惨さに、最初はただ驚くばかりでしたが、報道が進むうちに、さらに悲痛な驚きに転じていったのです。

 というのは、犯人達の学歴です。もちろん、学歴で人を見る愚を私は持ち合わせていませんが、東大医学部・理学部が各二人、他に京大医学部・法学部、慶応大医学部、大阪大院物理、早稲田大院理工・院物理など、世にいう一流大学卒の人間がメンバーの中心だった。こうした高度な学問を修めた(と思われる)人たちがいとも簡単に人間を殺す。愕然としました。

 その時に思ったことは、学歴社会とは一体、何なのだろうか、という素朴な疑問でした。逆に言えば、大学教育に対して、世間はもっと糾弾すべきだったし、大学はどのような教育をし、どのような学生を世に送ってきたのか、真摯な反省が求められたのです。しかし、いつの間にかそれも風化してしまったように思えます。大学側にも、さほどの反省も見られませんでしたが、あれは一体何だったのだろうかとの思いが、今でも私の心に強く残っています。

 二つ目の事件が、「阪神・淡路大震災」でした。死者が六四三七名、行方不明者三名、負傷者四万三七九二名。被災者の皆さんは本当に大変だったと思いますが、国際テレビの映像を見ていてさらにショックを受けたのは、見事なまでにバタンと倒れた高速道路の姿でした。日本の建設・土木技術は、世界でもトップクラスです。その屈指の技術力を駆使して作った道路がいとも簡単に崩壊した。その映像を見ていて、近代科学技術の神話が私の心の中で崩れ去った気がしました。

 いくら頑張って素晴らしい技術を開発しても、自然の力の前では必ずや限界がある。それを意識することなく現代文明が先へ進むことの恐さを、あの時、科学技術に携わっていた多くの人達は皆、感じたと思うのです。しかし、この二つの事件は、今はもう、ほぼ忘れ去られてしまい、未来への教訓にはなっていないようにも思えます。例えば、「学歴・偏差値信仰」は、いまだに根強く残っています。しかし私は、一九九五年の二つの事件によって、エリート神話の崩壊と近代科学技術への大きな懐疑を決定的に感じたのです。

加えて、全入時代では、いろんな意味で偏差値に反映されない学力の低下が進みます。最高学府である大学にとっては、大変危険なことです。

 室井 本来ならば、学歴社会は根底から崩れ去るべきであり、各大学の教育の中身や学生の人間性できちんと評価される世の中になって欲しいと思います。ただ、少子化が進んでいるにも関わらず、文部科学省の大学設置基準の規制緩和もあって、一九九二年〜二〇〇六年の間に七〇の大学が新設され、短大から四年制の大学への移行を含めると、一八四校もの大学が増えている。その結果、私立大の四割、短大の六割が定員割れの学部、学科を抱える状況にまで事態は悪化しています。本学はまだ、そのような事態に至っていませんが、ただし、大学全入時代とは、大学経営上の危機や学生の学力低下という側面だけが問題なのではなく、そもそも大学とは何なのだろうかという、真摯な問いかけこそが必要な時代なのです。

さて、こういう時代、環境だからこそ、専修大学の存在意義もまた世に問われます。「専修大学とは何か」ということです。

「三代目跡取りの失敗」

 室井 お蔭様で、本学は社会的な信頼を勝ちえており、大変有難いと思っています。来年は創立一三〇年になります、この間に刻まれた歴史と伝統を基盤として、本学の二十一世紀ビジョンである「社会知性(socio-intelligence)の開発」のもとで、教育・研究体制の改革に全力で取り組んでいるところです。

 ただし過去において、本学には様々な節目があり、私見ですが、少し残念なこともありました。所謂「三代目跡取りの失敗」です。

それは何ですか。

 室井 いうなれば、初代社長が頑張り、二代目もそれなりに頑張って社業の発展に貢献した。しかし、三代目で身上を食い潰したといった話は、企業の世界にはよくあることです。その例えで言いますと、本学も一三〇年の歴史の中で、初代の四人の創立者は大変立派な人達で、本学の礎を築きました。問題は、しばらく後のことですが、東京六大学野球がありますね。そのルーツは、一九〇三年に始まった早慶戦にあります。

それと専修大学とどのよう

な関係があるのですか。

 室井 はい、この早慶戦が大変な人気で、その後一九二一年までに明治大、法政大、立教大が加わり、最後に二五年に東京大が加わって六大学となり、今日に至っています。ところで、専修大学の野球部は一九二五年に創設されていますが、実は当時、この大学リーグに参加しないかという打診が本学にあったそうです。ところが、当時の関係者は、この話を断ったという。歴史に「れば、たら」はつきものですが、もし本学がその話を受けていたら、例え連戦連敗でも、日々の新聞紙上を賑わしたはずです。

 当時、何故お断りしたかといえば、分担金が払えそうにもないという理由のようでしたが、お金は後から付いてくるものです。あくまでも、三代目というのは比喩的な表現ですが、これは、本学にとって「歴史的な敗北」だったと、私は常々言っています。

実に勿体ない話です。

室井 大学創設当時の苦労がようやく実り、本学の社会的評価が高かったからこそ、こうした誘いがあったのだと思います。断ったセンスの無さ、大学の将来をきちんと展望できなかった分析力の無さに、本当に今でも悔やまれます。それに、偶然といいますか、大学令による経済科から経済学部への昇格が一九二三年であり、本学にとっては、大変良いタイミングだったはずですが。

PR効果、社会的付加価値から考えても、大変残念です。

固定化されたイメージ

 室井 そして、これも私見ですが、本学にとって残念なことが、もう一つあります。それは、本学に対する「固定化されたイメージ」です。世間的に専修大学といえば、実学主義・質実剛健・体育会系といった、所謂「男臭い大学」のイメージが定着していることは否定できません。このこと自体にどうこう言うつもりはないのですが、女子学生が少ないこともあって、こうしたイメージが世に定着していることが、本学の可能性を狭めていると思います。そうした中、一九六五年に文学部が設置されたのですが、この時、文学部を通して大学のイメージチェンジを図れなかったことも、今日の専修大学にとって少なからぬ損失になっていると私は思っています。

今でも、専修大学は男臭い大学で通っています。

 室井 そもそも、男性と女性がこの世で共存しているのですから、女性のセンスや視点は学問の場でも絶対に必要なのです。今では、本学にも女子学生が増えてきましたが、まだ、対外的には男性型の大学というイメージが根強く残っているように思います。専修大学というと、女性には曖昧なイメージしかないとも言われます。人類の半数を占める女性にも人気のある大学になるよう、早く改革することが重要です。本学のイメージチェンジは、これからでも遅くないと思っています。

丁度、来年が一三〇周年ですね。大学全体の改革にとって、よいタイミングです。

改革に向けた「姿態変換」

 室井 その通りです。そこで、本学の改革を考えた時、キーワードは「姿態変換(変態)」です。性的倒錯(paraphilia)の意味ではなく、オタマジャクシがカエルになる、という意味での生物学的な姿態変換(metamorphosis)です。本学は、来年で創立一三〇周年を迎えますが、是非、これを契機に本学の姿・イメージを変えたいという願いを込めて「姿態変換」の言葉を使っています。この言葉は、元々は生物学上の用語ですが、実は経済学にもこの言葉が出てきます。有名なK・マルクスの『資本論』の中で、産業資本の循環を説明する時に、この言葉が出てくる。

 その意味は、お金を所有する資本家が、生産手段としての機械や原材料を購入し、また労働者を雇用して、工場で商品を生産し、それを販売して利益を得る。利益の一部を再投資して、より多くの商品を生産し、より多くの利益を得る。資本は単なるお金ではなくて、貨幣、生産手段・労働力、商品に次々に姿を変えながら増えていきます。経済学の表現では、「資本は姿態変換しつつ自己増殖する価値の運動体である」と定義されます。

 これと同じように、本学は様々な意味で「姿態変換」すべき時期に来ていると思います。その具体的な方策の一つは、今お話した「固定化されたイメージ」の払拭です。そのために、今まさに実行中なのが「テレビCM」です。

 昨年四月から、テレビの全国ネット番組でスタートしました。大学が全国ネットを使って広報活動を行なったのは初めてのことです。このCMの意図は、狭い意味での専修大学のPRというよりは、大学の存在意義、それ自体を問いかけ、全国の大学生が考えるきっかけを創りたい、というところにありました。CMの最後に、「専修大学」とぽつりと一言。大学のアカデミズムと落ち着きを詩的に問いかけるCMになりました。

大変、評判がいいようです。確か、先生が企画に携わったそうですね。

評判を呼んだ「テレビCM」

 室井 そうです。この企画を知った時、私は本学の建学の精神や伝統だけを強調する内容にしたくなかった。もっと率直に、この複雑化し、混沌とした時代における大学の存在意義や、大学生であることの意味について、社会に問いかけるCMにしたかったのです。そして、大学を卒業した後も、ふとした機会に母校を訪ねると、なんだかほっとする。日々の喧騒を忘れて心がゆったりできる。それも大学の大きな存在理由の一つであって、本学の落ち着いたイメージをCMに加味したつもりです。多くのメディアに取り上げられたのはとても嬉しかったですね。

韓国のテレビからも取材の申込みがあったそうですね。

 室井 韓国のニュース番組の中に、「日本の大学事情」というコーナーがあり、本学と東大、それに慶応大と共立薬科大の合併が取り上げられました。現在は第二作目を放映中ですが、こうしたCM活動を行うことで、本学の固定したイメージを打破し、「姿態変換」に繋がっていくことを大いに期待しています。

 もちろん、大学は、教師と学生との信頼関係を前提とした「学問の共同体」であり、「真理探究の場」であるという、存在基盤そのものを変えることはありません。ただ、この本来の大学の目的が、最近、どうも軽視されがちのようです。少子化や大学の新増設による全入時代を迎えて、本来の大学の在り方よりも、ともすれば経営危機や学力低下問題後者は、責任の大半を学生に押し付けることになりかねないのことばかりが、話題を集めているように見えます。私は、大学人の一人として、この風潮が大変気になっています。専修大学もこのままでいいのだろうか、創立一三〇周年を迎えようとする今こそ全力を尽くさねばならないことは何なのだろうか。大学全体で真剣に議論を詰めねばなりません。

専修大学の根幹に関わることですね。それは、どういうことですか。

アカデミズムへの回帰

 室井 神田で生まれた本学が、いつの日か神田に戻るべきであるのと同様に、大学もまた、生まれた当初の理念である「アカデミズム」へ回帰することが、最良の方法だろうと思います。確かに、優秀かつ行動力のある学生を除くと、本学の学生たちは勉強嫌いかも知れません。また、サークルに帰属していないと精神不安になるという、「サークル症候群」も少なくないように思えます。しかしそれは、我々が彼らを学問の世界に導いていないからかも知れません。知識の断片として強制される「勉強」ではなく、自由意志で取り組む様々な「学問」に出会えば、必ずや、そこに知的興奮と喜びを、あるいは、涙し怒りを覚えるはずです。大学全入時代だからこそ、我々はむしろ原点に立ち戻るのです。世間に軽薄と陰湿が蔓延っているとするならば、それに立ち向かわねばなりません。

自戒の念を込めての発言になりますが、本学に一三〇年の歴史と伝統があるといっても、それ自体に無条件の重みがあるわけではないと私は考えています。現実を真摯に受け止め、未来を確かなものとして展望しながら、「アカデミズムへの回帰」を如何に実現し、世に問うのか、今、本学の真の実力が試されていると思います。そのためには、私自身もまた、変身・脱皮せねばならないのでしょうね。


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