カンボジア・スタディーツアー2005

W16 小山 佳彦
W16 尾崎 弘之
 W16 板倉 沙織


●日程:2005日〜17日(11日間)
集合日時:2005日(月) 15
●集合場所:成田空港 第旅客ターミナル 3階 TG(タイ国際航空)チェックインカウン
   ターに一番近い入口 (預け荷物チェック前)付近



        **** 日程表 ****

日程 場所     便名   時刻 スケジュール
日(月) 成田 発    TG641  10:45
バンコク 着        15:45
バンコク 発  TG698   17:30
プノンペン          18:45
成田発タイ国際航空便にてバンコクへ、乗り換え後プノンペンへ


Golden Gate Hotel 泊
日(火) プノンペン 午前:8:00 JLMM事務所にてプログラム説明、ゴミ集積場と隣接する村における衛生教育プログラム見学(プノンペン郊外)
午後:2:00 ツールスレン刑務所、4:00 キリングフィールド・ポルポト時代大量虐殺の現場を訪問
Golden Gate Hotel 泊
日(水) プノンペン→コンポンソム 午前:ワゴン車でコンポンソムへ移動
午後:海岸にてカンボジア人学生グループと交流会
Meary Chenda Guesthouse 泊
10日(木) コンポンソム→キリロム
 →プノンペン
午後:カンボジア学生と交流遠足
午後:キリロム・パパイヤ農園見学、プノンペンへ移動
Golden Gate Hotel 泊
11日(金) プノンペン→コンポンルアン
 →バタンバン
午前:7:00 プノンペンからコンポンルアン水上村へワゴン車 にて移動 JLMMプログラム見学 
午後:コンポンルアンよりバタンバンへ移動、
    女性NGOラチャナ訪問、ホームステイ先へ
カンボジア家族の家に分かれてホームステイ
12日(土) バタンバン 午前:ホームステイ先で過ごす
午後:ラチャナ集合・買い物、
    バタンバン省立孤児院で子どもたちと交流会
バタンバン省立孤児院 泊

13(日)

バタンバン→シアムリアプ 午前:7:00 ボートにてシアムリアプへ移動
午後:市場見物、
   8:009:00 クメール伝統薬草サウナ体験(希望者のみ)
Bequest Hotel  

14(月)

シアムリアプ 午前:9:00 プノンクラオム子どもセンター・
おかゆ配給。プログラムに参加、子どもたちと交流

午後:5:00 世界遺産アンコールワット見学、
日没鑑賞、クメール民族舞踊鑑賞

Bequest Hotel  

15(火)

シアムリアプ 午前:アンコールワットの日の出、アンコールトム、ベンメアレアなど遺跡群見学
午後:4:00 アキーラーの地雷博物館見学、
       アキーラーの子ども劇団鑑賞

Bequest Hotel  
16(水) シアムリアプ→ポイペト
 →バンコク
午前:ポイペト国境へ移動。国境を渡り、
タイへ。
電車にてバンコクへ移動。
Krung Kasem Sri Krung Hotel, Bangkok 泊
17(木) バンコク発 TG640
 
11:20 成田着 19:00
バンコク市内からバンコク国際空港へ移動。
成田空港着後、解散


ステミエンチャイ・・・・・・・・・尾崎 弘之)


1.ステミエンチャイとは・・・

プノンペン市内にあるごみ処理場の事。プノンペン市内のごみを分別することなく
集められ捨てられる。一日に約200台ものトラックがごみをおろし、ごみをおろす
とすぐに人が集まりわれ先にと棒のようなものでごみを物色する。缶、鉄、プラス
チックなどを集めてリサイクル業者に売る。これを仕事として暮らしている人々が
大勢いる。ステミエンチャイの横には、ルッセイ村という村がある。この村の住民
は村で生活をし、仕事はステミエンチャイにごみを拾いに行くという人がほとんど。
特に、子どもと女性が多い。


2.問題点・・・

  1) 劣悪な環境の中での衛生面
  2) 水質汚染などの環境問題
  3) 住民の健康に関する知識の低さ
  4) 子供たちが学校に行く金銭的な余裕のなさ
  5) 親の教育への無関心さ
  6) 人口の増加

3.これからの課題・・・

  1) カンボジア政府にごみに関する環境問題を伝える
  2) 住民が使える共同井戸の設置
  3) 子供たちへの識字教育、衛星教育
  4) 親に教育の大切さを理解してもらう

4.結びにかえて・・・

 カンボジアで最初に行った場所がステミエンチャイだったこともあり、とても衝撃をう
けた。実際にステミエンチャイでは、捨てられて腐りかけたているご飯を食べている人
や。本当に押さない子がかごを背負ってごみの中を歩いている姿、テレビで見るような
風景が自分の目の前に広がっていた。 「本当に現実なんだ」と思うと、何だかわから
ない怒りとやるせなさが込み上げてきた。でも、そんな状況の中で必死に生きようとす
る人々の姿を見て、「生きる」とはどういうことなのか改めて考えさせられた。
 そして、近隣の家庭でいろいろ助け合い、たくさんコミュニケーションをとり、なおかつ、
いつも楽しそうな笑顔が絶えないルッセイ村の人々をみていると、今の日本では忘れら
れてしまっている大切な事を感じられたような気がした。自分は、昔の日本は知らないけ
れど、何か懐かしいような感じがした。
 私は、今回のこのツアーで一番発展途上国を感じられたのは、このステミエンチャイだ
と考えている。発展途上国の悲惨な部分がたくさん見られたのは、とてもよかったと思う。
こんも体験を通して得た経験をいかし、これからもこのステミエンチャイに注目をして考え
ていきたいと思う。そして、できればまた訪れたいと思う。

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水上村コンポンルアン・・・・・・・・許斐 恵子)

水上村コンポンルアンは、カンボジアのほぼ中央にあるトンレサップ湖の上に位
置します。トンレサップ湖はアジア最大の湖であり、また、魚もアジアで最も獲れ
ると言われています。村には
1106世帯、6121人もの人々が生活しており、そのうち
7割がベトナム人、一部がイスラム教徒のチャム族とカンボジア人が屋根のついた
小船やいかだの上に建てた様な家で暮らしています。かれらの家には、家が流され
ない様1本のロープで岸とつながっていますが、風の強い日などは家が転覆する事
もあるそうです。住民は主に漁業で生計を立てていますが、その他に魚の干物など
を作って船上で物売りをしている人たちもいます。しかし平均収入は
2000リエル
3000リエル(1j=4000リエル)と貧困世帯が多く、生活全般で様々な問題を抱え
ています。


〔問題点〕

水質汚染…水上村には電気、ガス、水道がなく、人々は生活用水として湖の水
をそのまま利用しています。しかし生活排水や家畜の排泄物、ごみなどを全て垂
れ流しにしているため、湖の水質は著しく汚染されており、皮膚病や肝炎、おな
かを壊すなど、健康に及ぼす被害がとても大きいです。

人種問題…多くのベトナム人はカンボジア語を話す事が出来ず、また国籍を持
たない人が多いために公共機関へアクセスすることができず、病気を悪化させ、
そのまま死に至るケースも少なくないそうです。また最近では
HIV感染も問題と
なっています。彼らはたとえ病院に行っても、カンボジア人から偏見を受け、
相手にされず治療が受けられないという現状もあります。
子供は言葉の問題から、
公立の学校に通えないほどの問題があります。


JLMMの活動〕

識字教育プログラム…識字教室の先生達とのミーティングを月1回実施してい
ます。教室からは
24人の生徒(うち半数退学)が公立小学校に入学し、その際
制服やノートなどの支援を行いました。

水浴びプログラム…10歳以下の子供を対象とし、健康状態の把握、爪切り、
耳掃除、薬の塗布などのケアを合わせて行っています。参加者は
2025人、
週一回のペースで行っています。

病人支援プログラム…病人の病院受診のための交通費支援を行っています。
また軽症のケースに対しては、栄養や処置に関する指導を行い、健康管理など
の教育指導をしています。
村には3人の医者が存在しますが、検査は行わずに
点滴しかしないそうです。また資格を持っているのかも不明です。

栄養改善プログラム…豆乳を配給し、それを通して栄養に関する知識を教育
しています。
病後の乳幼児や栄養失調児の粉ミルク配給も行っています。また
ボボーという野菜や肉の沢山入った栄養価の高いお粥を、病人、お年寄り、母
乳中の母親に食べさせながらの栄養に関する知識の教育も行っています。

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プノンクラオム子どもセンター・・・・・・小山 佳彦)


〜目次〜

 1. 子どもセンターの活動内容
 2. 子どもセンターに求められるもの

1. 子どもセンターの活動内容

 *識字教育プログラム・・・クメール語の読み書き、簡単な英語の読み書き
 *教養教育プログラム・・・音楽(ドレミを教えたり)
 *おかゆ配給プログラム・・・子どもたちにお粥を配給

2.  子どもセンターに求められるもの

 *識字率の向上
 *遊ぶことの大切さを教える
 *人との関わり合いを持つ事を教える
 *栄養のある食事の大切さを教える
                  

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アキー・ラーの地雷博物館・・・・・・・・・・・・(板倉 沙織)
               

1.地雷

2.不発弾

 ・戦場がジャングルだったため、不発弾が多い。
 ・子どもが投げ合って遊ぶ。
 ・畑を耕している最中に被害にあう。

3.アキー・ラーはこの博物館をNGOにすることを望んでいる。

 (メリット) 資金的に余裕ができ、博物館を拡大することができる。
         受け入れる子どもの数が増やせる。
 (デメリット) NGO同士の競争になる可能性がある。

4.カンボジアでの撤去の難しさ。

 ・カンボジアは他の国と違って、ジャングルで戦っていた。
 ・日本で発明した大きな地雷探知機は使えない。木や草を切って金属探知機をあてる。
     → 環境に悪影響を及ぼす。
 ・二重、三重に仕掛けられた地雷。
 ・クメールルージュ兵は記録を残していない。
 ・観光名所の撤去が優先され、住民の生活範囲の撤去が遅れている。

5.子どもたちによる、「カンボジアとアキー・ラーの歴史についての劇

6.地雷被害者への保障について

 ・保障はない。生きていかなければならないため、地雷で被害にあっても、1〜2週間で
   生活に戻る。
 ・唯一、NGOが自立支援をしている。
 
7.日本人のボランテイアの人から話を聞いた

  (質問)政府がどう動いたらすべての地雷が撤去されると思いますか。
  (回答)お金の支援よりも技術開発してほしい。

  (質問)なぜここでボランティアをしようと思ったのですか。
  (回答)きっかけは、たまたま旅行に来たことだった。今は、仕事を辞めてきた。
       重要な事はお金の支援ではなく、自立支援をすることだ。

  (質問)私たちが日本でできること、すべきことは何だと思いますか。
  (回答)「伝えること」だと思う。色んな人にちょっとでも意識してほしい。
       意識を植え付けてほしい。

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    Vann Nath  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(板倉 沙織)


1978年1月7日〜1979年1月7日の一年間、ツールスレン刑務所に収容される。

バタンバンでの生活〜市民から敵に〜

1946年バタンバンに誕生。
・絵描きとして生計を立てる。
・1971年11月5日・・・結婚。その後、子供を三人もうける。・・・内戦の激しさが
   増していく時代
ポルポト時代になると、市民ではなく、「敵」というレッテルをはられる。
 そして、「敵」として生きる日々が始まった。

外出も出来るほど、比較的自由な生活を送る。

ツールスレン刑務所まで〜地獄への道〜

1978年1月7日にクメールルージュに囚われる。33歳のことだった。
中国製のトラックに乗せられて、昼の12時、ツールスレン刑務所に向け出発。
 夜中の3時に到着
足かせに足をつながれて、飲み食いできず、車が止まっても下りることは許
 されなかった。

2台のトラックに18づつ、計36人が同時に連行される。

ツールスレン刑務所にて〜すべての自由を失う〜

着いてすぐに写真を撮られる。このときだけ目隠しをはずす。正面と横の写真
の下に囚人番号をつける。自分は55番。これは、その日の朝の時点から55人
目だった。ということを表す。
二階に上がる。人間としてではなく、動物として扱われる。あしかせでつな
がれ、寝かされる。
朝から晩まで寝ているだけ。座ることさえ許されない。座りたいとき、眠りた
いときはガードマンの許可が必要。

食事は1日2回、スプーン3杯分のお粥が出る。水さえも飲めない。お風呂に
も入れない。たまに、シャワーだといって入り口からホースで水をまかれた。
しかし、部屋の奥にいる人にはかからない。

この過酷な状況の中でやせ衰え、1日に2人死んでいく。
人が午後1時に死んでも、翌日の朝に死体を回収に来る。それまで臭い死体と
 共に寝る。

この状態で1ヶ月が経過。
ある日、兵士が自分の名前を呼ぶ。しかし、衰弱しきっていたため、立ち上が
ることができなかった。自分の足の肉が削げ落ちていた。もう一週間ながくつな
がれていたら死んでいただろう。

一階にいくと手を後ろにして縛られた。
若干36、7歳であろう中国系の兵士から大声で尋問をうける。
自分の過去をことこまかに話す。
シアヌーク時代・・・学生として、美術の勉強をする。
ロンノル時代・・・絵描きとして働く。その後は農業に従事していた。と。
絵描きであることがクメールルージュに知られる。
3日間の休息が与えられた。
今まで食べていたお粥よりも少し硬めのお粥がでる。しかし衰弱しきってい
るため、噛むことさえできなかった。

少し体力を回復させる
「自分の命を救うためならば何でもやってやろう」という気持ちが湧いてくる。
絵を描くことを命じられたが、衰弱のために手が動かなくなる。しかし、試さ
れていると感じ、一生懸命描く。

2,3枚描いた後に、ポルポトの絵を描くよう命ぜられる。大きなポルポトの
肖像画を描いた。

肖像画や彫刻の仕事は、自分を含めた3人に任されていた。
2,3人の少年兵が絵を習いに来た。
3ヶ月後、教え子である少年兵の上達ぶりを聞かれるが、スプーン、皿などし
か描けない。3ヶ月
 では上手くはならない。
そのことを伝えると、その少年兵はほかの仕事に移
り、別の少年兵が習い
 に来た。

結局、どの少年兵も上手くなる事はなかった。
この頃、番号が「100」以上の人が多くいた。工場のように人の出入りが
激しかった。
女性、子どもを含む12000人がツールスレンで殺された。
チュールというところに連れて行かれて殺される。
1月7日に近づくにつれて人が減っていき、最後は約10人になった。
ベトナム軍とクメールルージュとの戦いが激しくなってきたとき、自分を含む
技術者たちはひとつの部屋に集められて外から鍵をかけられた。

1月7日、ベトナム軍が攻め込んできた時、クメールルージュが鍵を開けてく
れたので脱出する事ができた。


ツールスレンを出てから現在まで〜市民としての自由な生活へ〜

ツールスレンを脱出して一晩中歩き続けて、朝が来たとき、「自分は助かった
のだ」と実感した。

道で、ベトナム軍がプノンペンに向かうのを見た。
家族が生きているのか死んでいるのかもわからない状態で、バタンバンに向かう。
ベトナム軍隊の募集があったのですぐに入隊した。そうでもしなければ、食べて
いけない状態。

軍隊としてバタンバンに立ち寄った際、家族を探した。自分の子どもが3人と
も殺されていた。

妻と再会し、一緒にプノンペンで暮らし始めた。子どもが3人生まれた。
軍隊での仕事は、事務作業。

現在〜記憶を伝える〜

この記憶は捕らえられた時から今まで忘れたことは無い。
ツールスレンでの絵は1ヶ月に1枚書くことが精一杯だが、自分しかこの事実
を伝えることができない。伝えていきたい。


Q&A

Q:解放された時、ポルポトに対して感じていた思いは?そして、その思いは
 今も同じか?

A:生きていく事で精一杯だった。その時、そこには「何万人もの人がただ、
 風が吹くように死んでいった。」という事実があっただけだった。ベトナム
 軍に入隊したことも生きていくためで、クメールルージュを叩くためではな
 い。そして、「この事実を伝えなければならない」と思った。
1980年か
 らはたくさん絵を描いた。自分が伝えなければ誰も伝えられないと思った。

  ツールスレンで7人生き残ったが、今生きているのは自分を含めて3人だけだ。

Q:ひどい仕打ちに対して、どう思うか?
A:恐ろしいことがあったが、誰に罪があるとは言えない。だからこそ現代の
 法律によって、何があったのかをはっきりさせるべきだ。
解放後、自分を捕
 まえた看守に会った。その時自分は昔されたように殴ることはしなかった。
 そして、なぜ自分を殴ったのかを聞いた。看守は「自分も命令されて怯えな
 がら やった。」と答えた。少年兵は生まれたときから「そういう」教育を
 受けて育ったのだった。

Q:いま、クメールルージュが裁かれないことをどう思うか?
A:このことについて20年間考え続けている。もし裁判が行われたら、誤り
 であるのか、正しいのか、がわかるのに、今は何が正しくて何が誤りなのか
 がわからない状態。裁かれないことによって、自分がつらい思いをするのだ。
 裁判が行われたことで死んだ人が帰ってくることはないが、なぜこのような
 ことが起こったのか。真実が知りたい。

Q:いま裁判が行われれば、幸せですか?
A:今は答えられない。そのときになってみなければ・・・。

             (2005年2月8日 Vann Nathの経営するレストランにて)