★Study Tourの目標 @自分の目で、アフガニスタンの現状を一部の地域だけだが見たい、アフガ ニスタン人の本当の声や願いを知りたい、どうしたらいいのかを考えたい。 ANGOの活動に参加して、何か協力したいから。 B将来のために、NGOの活動を体験したい。 Cできたら、アラビア語でコミュニケーションをとりたい、 D自分が今後何をする必要があるか知る。 ★旅の費用 アフガニスタン義肢装具支援の会 入会金 3000円 航空費 152740円+手数料630円 アフガニスタン ビザ代 3750円 パキスタン ビザ代 100円 AIU保険 6040円 パキスタン1泊 75ドル(約8475円) アフガニスタン4泊 165ドル(約18645円) *1ドル=113円 交通費 2720円 荷物送迎 3500円 写真フイルム現像 6856円 持ち物(薬や食料や雑貨など) 15257円 その他(買い物や書類の郵送) 8750円 合計費 230463円 注意:現地での移動交通費や食事はアフガニスタン義肢装具支援の会が受け 持っていたため、実際自分が払うことになれば、もっとかかる。 ★利用航空 パキスタン航空 ★スケジュール:2004年8月13日(金)〜8月20日(金) ☆8/13(金) 14:00(日本時間) 東京(成田)発→中国(北京)経由で 21:05(パキスタン時間) パキスタン(イスラマバード)着 ☆8/14(土) 13:30(パキスタン時間) イスラマバード発 14:10(カブール時間) アフガニスタン(カブール)着 ☆8/15(日) カブールで納品 ☆8/16(月) ジャバルサラジ(カブールから北に約75キロメートル(車で約 2時間)に位置する町)で納品。採型案内ポスター張り出し ☆8/17(火) ジャバルサラジで採型 ☆8/18(水) カブール市内散策 夕食は、チャイニーズレストランで食べる。 ☆8/19(木) 6:00(カブール時間) 一般人の行くハンマーム(銭湯)へ行く。 7:00 運転手(アビブさん)の家で朝食をとる。 15:00 カブール空港発 16:00 イスラマバード着 22:35 (パキスタン時間) イスラマバード発 ☆8/20(金) 12:40 (日本時間) 成田着 ★私たちの滞在場所 Holiday In Hotel(イスラマバード) Friend Guest Housu(カブール) *日本→パキスタンの時差 −7時間 *パキスタン→アフガニスタンの時差 −30分 ★基本情報 アフガニスタンは、四方八方を大変険しい山に囲まれた国であり、その大地の 中に人々が家を作り、町を作り、生活していた。カブール空港近辺では、山の強風 によって私たちが乗っていた機体はゆらゆら揺れながら空港に到着した。飛行機 が空港に着いたとき、空港の周りも山で囲まれていたことに大変驚いた。ペシャ ワール会というNGOの中村哲氏が、この国は、かつて緑であふれた楽園であり、 人々のほとんどが農業か遊牧を行う農業国家であった述べていたが、一目見て そのことが理解できた。 アフガニスタンは、基本的には、長老を中心とした部族ごとの文化を持った社 会が集まっている国であり、知識や経験をたくさん持つ長老たちの会議によって 物事は決定する。ブルカを使用するかどうかはその一例である。 *カブールは標高1800メートルの盆地に位置している。私たちはそこで生活した。 *アフガニスタンでは国の人口や民族別の人口や識字率を含めた国のデーターは 全て、長年の内戦によって、正確な統計が把握されていないため、現在も全て 不明である。 通貨・物価 ・パキスタン 1ドル=55ルピア ・アフガニスタン 1ドル=44アフガニー 例)水(1.5リットル)=25アフガニー 缶ジュース1本=15アフガニー(1ドルで3本のジュースを買える。) 飲み物(ミネラルウォーター以外) 紙パックのジュースは、ゲストハウスの向かい側にあるスーパーマーケットと 書かれた日本よりも一回り大きいコンビニくらいの建物で見かけた。種類は、ピー チやマンゴーやオレンジやりんごのジュースがあり、私はピーチを買って飲んでみ た。ピーチは濃厚でドロドロしていたが、飲み慣れると病み付きになった。缶ジュー スは、4日間の滞在中、ペプシコーラとミランダ(ファンタオレンジ)と7アップ (サイダー)のわずか3種類しか見なかった。 アフガニスタンでは、店が多いが、露店も多。その中でも果物やドリンクを売る 露店がとても多かった。アフガニスタンの炭酸飲料は、コップに注ぐと、入れた量の 半分くらいしか実際の量はない。泡が大気に触れて消えていくのである。とても不 思議である。 アフガニスタンの家の作り方 コンクリートで床と天井とサイド4つに柱をつける。コンクリートの柱の間に木 の柱をつける。コンクリートが固まったら、気の柱を取り除き、レンガを間に詰め る。レンガの上に泥とすすきのような草で混ぜたものを塗りつけて乾いたら出来 上がる。
★カブールで発見したこと @電力事情 首都のカブールでさえも電気が一般に普及していなかった。私たちが滞在した 民宿には電気はあったが、毎日小時間停電した。また、どの店も外に小型発電機 が置いてあった。電気が通らないために、人々は、自分たちで発電機を買って、 明かりをつけているのである。私が見た限りでは、市場では店に人が来ない限り、 昼は明かりを消した店が多かった。 A食べ物 特に印象に残っている食べ物はメロンである。アフガニスタンのメロンは、と ても甘い果汁とシャリシャリした歯ごたえで、とてもおいしかった。日本では高級 クラスには入ると断言できるほどの甘さとボリュームだった。メロンやスイカは、 ラグビーボールよりも一回りも大きく、1つだけでも両手でしっかり持っていない と落としてしまうほど重くかった。夏の名物品であり、カブールでは、露店でよく 目かけた。 B文化と商品 子供たちの遊びの1つに、日本と同じ凧揚げの文化があった。また、カブールの 骨董品の店には、アメリカの独立戦争と日本の討幕派と幕府軍の戦い、その後、 アフガニスタンの独立戦争(1920年)にも使われてきたイギリス製の銃剣や武器 が沢山売られていたため、大変驚いた。また、カブールに映画館や銀行があった ことにも驚いた。 誰も信じてくれないが、私は、カブールのゲストハウス近くの露店の品物の中 に、石版の中央に仏様がくっきりと形どられた遺跡の一部?を見た。後ろ側には、 荒削りで剥ぎ取られた後があった。私は、テレビで、バーミヤンなどの遺跡を掘り 起こして、それを海外や店に売ってお金を得ている映像を見たことがあるため、 自分が見た遺跡の破片は本物と思っている。店の主人もバーミヤンのものという ので、現在も真相が気になっている。 C日本の援助? 日本の援助だと思われるが、日本の旗マークのついたバス停とバスをよく見か けた。また、日本で昔使われていたと思われる「焼肉〜」「TOYOTA」などの日本 語のロゴ入りの軽トラックや、市内バスや観光バスがここで使われていた。 D事故と死 カブールからジャラボサラジへの車での移動中、自動車事故の現場に遭遇した。 ある車が、砂利の石に躓き横転し、引きずったまま数メートル進み、歩行者と激 突して、車に乗っていた人と道路を横断する歩行者や道路の脇を歩く人を含め、 少なくとも3人は死亡して、6人は怪我をしたようであった。現場は人であふれ、 混乱していた。悲鳴と叫び声、そして、道の横に敷かれた敷物の上に横たわる 人を見て、事件の壮絶さを強く感じた。先ほどまで、私たちの横を走っていた車 が惨事にあったことや、私は本当に死んでいる人を見たことがないため、どうし ても信じられなかった。40度を超える暑さで、車のタイヤは磨り減り、道路は、都 市を離れると次の都市まで一本道が続く上に、その道を往来する車や人で混雑 しており、さらに、道路はところどころ穴が開いており、脇の砂利や石がはみ出し ているため、車のコントロールがきかなかったのかもしれない。また、道路の脇 には、地雷が今でも数多く残っており、復興が間に合っていないのである。地雷 があるその土地一帯は、作物を育てることも人が生活をすることも、歩くこともで きないのである。このような事故はよくあるようで、犠牲者が少なくなることと、 これからの道路の復 興のあり方を強く感じた。亡くなった方のご冥福を祈り ます。 E自然環境の変化 カブールに入ると途端に高級マンションや店がずらりと続く。それまでは、広大 な肥えた砂漠に近い大地や畑が辺り一面に広がっているのだ。また、ジャラボサ ラジからカブールに帰る途中に、干上がった川をいくつも見た。川の痕跡を強く残 していることから、近年起こり始めた旱魃や温暖化による山の残雪の減少によっ て水の恵みが山から流れてこないため、川は干上がってしまったようだ。近くに 住んでいた人は生活ができないために家を離れてしまっており、廃墟と砂漠化が 進んでいた。 F汚水事情 カブールでは、下水道が完備されていないため、汚水が、道路に流れている のをよく見た。とても臭くて、じっとしていられないほどであった。 Gマスード 北部同盟(反タリバーン連合)の指導者マスード(アメリカで起きた9・11同時 多発テロ事件の2日前に、ジャーナリストを名乗るアラブ人との取材中に自爆テ ロに巻き込まれ、亡くなった。)の写真や垂れ幕を、カブールやジャバルサラジ でよく見かけた。カブールでは、車に彼の写真が張っているだけで、彼の写真 がない車よりも検問が弱くなるそうである。彼は、現在も人々に大変愛され、 尊敬されている人間なのである。 Hカブール市内 カブール市内では、片足を失ったために杖を使って歩く人や、爆弾で落とされ て筒向けになっている(修復が施されていない)建物の残骸(このような状態 でも、床屋やレストランのような店として経営をしていた場所もあった。)、置き 去りにされた壊れた戦車や地雷除去機や、地雷のある危険があるために引か れた白い境界線や、銃弾の跡が残る家や壁やモスク(イスラム教徒の礼拝所) を見て、この国に戦争があったことを強く感じた。内戦が長年続いたため、道端 や家のそばや小山に沢山の墓があった。現在まで続く戦争の傷跡は私たちが メディアで見る以上にとても大きかった。メディアには取り上げられない人々の 生活風景や戦争の傷跡がとても印象に残った。
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